別子銅山問題への処置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)
明治20年代半ばから深刻さを増し、農民の県庁への直訴騒動が起こっていた煙害問題、及び、別子銅山を舞台とする住友内部の権力闘争を解決するため、1894年(明治27年)に新居浜に赴き、四阪島への精錬所移転を計画。当時、四阪島は大島や弓削島の島民の所有地であったが、住友が動いていると悟られぬよう、腹心の社員に命じて伊庭の個人名義で買い取り、精錬所を移転させた。 また、銅山の開発により荒れるがままになっていた西赤石山系の山々に「別子全山を旧のあおあおとした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない」として植林を施すなど、環境復元にも心血を注いだ(別子大水害も参照)。それらの山林を管理するため後の住友林業を設立した。 足尾銅山の鉱害を追及していた田中正造も、伊庭の一連の行動を評価し、別子銅山を「我が国銅山の模範」と評した。
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