内部対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 19:30 UTC 版)
ユカタン内部には、ミゲル・バルバチャノ (Miguel Barbachano) に率いられたメリダ派とサンティアゴ・メンデス (Santiago Méndez) に率いられたカンペチェ派の対立があった。バルバチャノは連邦派であり、メンデスは中央集権派だったがサンタ・アナの独裁には反対していた。両者の争いは熾烈で、1847年はじめには両派が別々の政府を持つほどであった。さらに第3の勢力としてマヤ人をあげる必要がある。 1846年にメキシコが1824年メキシコ憲法を復活させて連邦制が回復されると、メリダ派はユカタンのメキシコへの復帰に賛成したが、カンペチェ派はメキシコへ復帰すれば米墨戦争にユカタンが巻き込まれることになると主張した。同年10月に米艦隊がカルメンを占領し、一帯を封鎖した。1847年1月21日、メンデスはユカタンの首都をカンペチェに移したが、数ヶ月のうちに米海軍によってテキサス、メリダ、メキシコとの連絡が断たれた。同じころ、ユカタンの肉体労働力と兵力の大部分を担当し、高い税金を取られていたマヤ人が武器を取って白人とメスティーソに対してテピチ (Tepich) で1847年7月30日に反乱を起こした(ユカタン・カスタ戦争)。 危機に瀕したメンデス政権はワシントンDCにホセ・ロビラの率いる代表団を送って、米墨戦争に関してユカタン共和国が中立であると主張した。ロビラはユカタン共和国をアメリカ合衆国に編入することも提案したようである。フスト・シエラ・オレイリーを長とする1848年の2番目の代表団はユカタン半島全体をアメリカ合衆国に編入することを実際に提案した。 ユカタンをアメリカ合衆国に併合する提案はアメリカの拡張主義者やヤング・アメリカ運動 (Young America movement) の一部を引きつけた。ユカタン併合法案はアメリカ合衆国下院を通過したが、上院で廃案になった。米墨戦争は予想よりも複雑な様相を見せており、アメリカ議会はカスタ戦争に介入することを望まなかった。最終的に米国はカスタ戦争に正式に介入することはなかったものの、多くのアメリカ市民(多くは米墨戦争後に除隊した元兵士)が傭兵として戦った。
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