帝位を巡る内部対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:24 UTC 版)
帝位を巡るカイシャン家とアユルバルワダ家の対立の原因は、オルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)死後の政争にまで遡る。過度の飲酒により病弱であったオルジェイトゥ・カーンはほとんど政治に参画しておらず、事実上政権を運営していたのは皇后のブルガンであった。オルジェイトゥ・カーンとブルガンとの間にはデイシュという一人息子がいたが、デイシュが早世したために血統的に最も後継者に近いのはオルジェイトゥ・カーンの兄ダルマバラの息子に当たるカイシャン、アユルバルワダ兄弟と目されていた。しかし、個人的な理由からカイシャンらとその母ダギを嫌っていたブルガンは彼等を中央から遠ざけ、オルジェイトゥ・カーンが亡くなった時にはやや遠縁の安西王アナンダを擁立することで自身の権勢を保持しようと図った。 一方、ブルガンの専制を嫌うハルガスンら朝廷の有力者は密かにカイシャン、アユルバルワダ兄弟と連絡をとり、比較的近くにいたアユルバルワダが先手を打って宮廷クーデターを起こし、ブルガン政権を打倒した。ところが、その直後にカイシャンがモンゴリアの大軍団をまとめ上げて南下してきたために帝位(カーン位)はカイシャンのものとなったが、カイシャン側もアユルバルワダの功績を無視できず、アユルバルワダは「皇太子」とされた。ただし、カイシャン死後にアユルバルワダが即位した時には、「カイシャンの息子を皇太子とする」との約定がなされた。 新たにクルク・カーンとして即位したカイシャンは弟で皇太子のアユルバルワダを厚遇したものの、かつてアユルバルワダのクーデターに協力した一派はカイシャン派にクーデターの成果を奪われたと不満を抱いており、このようなカイシャン派とアユルバルワダ派の水面下での対立がトガチの乱の原因となった。
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