帝位獲得と東ローマ帝国の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:34 UTC 版)
「パレオロゴス王朝」の記事における「帝位獲得と東ローマ帝国の復興」の解説
ミカエル・パレオロゴスはニカイア帝国で権勢を揮い、1259年に幼い皇帝ヨハネス4世ラスカリスの摂政、ついで共同皇帝となって実権を掌握するに至った。1261年7月には悲願だったコンスタンティノポリス奪回を果たして東ローマ帝国を復興。その功績を利用して自ら正皇帝(ミカエル8世パレオロゴス)となってヨハネス4世を廃位・幽閉。最後にして最長の王朝となるパレオロゴス王朝を開いた。 後世「最も狡猾なギリシャ人」と呼ばれたほど知謀に優れたミカエル8世は、さまざまな計略(第2リヨン公会議およびシチリアの晩鐘を参照)や外交戦略を駆使してシャルル・ダンジューなどから帝国を防衛し、かつての大帝国の再興を目指した。しかし、ヨーロッパ側の領土奪回に集中している間に小アジアの防衛能力は低下し、ミカエルの子アンドロニコス2世パレオロゴスの頃には新興国家オスマン帝国に小アジアの領土を奪われていった。一方、ヨーロッパ側ではセルビア王国が勃興して帝国へ侵攻し、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンなどは「セルビア人とローマ人の皇帝」を称してコンスタンティノポリス奪取を標榜するまでになった。また、帝都奪回に際してジェノヴァやヴェネツィアへ貿易特権を認めたために、経済的にはこれらの北イタリア諸都市国家に従属することになって財政は窮乏。末期には帝冠さえ借金の担保にせざるを得ないほどの惨状であった。
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