帝位継承前後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:47 UTC 版)
「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「帝位継承前後の状況」の解説
1640年、ウィーンで誕生した。聖職者になるべく教育を施されたが、1654年、父帝の後継者に決められていた兄のローマ王フェルディナント4世が父に先立って死去したため、新たに後継者となる。1655年にハンガリー王に即位し、父が死去した1657年にボヘミア王に即位した。しかし、帝位はそのまま継承されず1年あまり空位となり、フランス王ルイ14世の宰相マザランがバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを皇帝に擁立しようとしたが、他の選帝侯たちの反対にあって失敗、翌1658年にレオポルトが帝位を継承している。 しかしレオポルト1世もすんなりと帝位についたわけではなく、選帝侯たちに莫大な金を支払い、スペインとの協力を断念するなど制約が設けられた上、ライン川方面に集まる諸侯がフランスの援助でライン同盟を結成、ケルン選帝侯、マインツ選帝侯、トリーア選帝侯ら聖俗諸侯やヘッセン=カッセル方伯、ブランデンブルク選帝侯、プファルツ選帝侯など有力諸侯も加わりライン川のハプスブルク領が分断され、フランスのライン川への進出が容易になり苦しい状況に追い込まれた。ただし、ライン同盟自体は1667年に内部分裂から消滅している。 おりしも東のトランシルヴァニア公国では、ラーコーツィ・ジェルジ2世がポーランド・リトアニア共和国の内戦(大洪水時代)に攻め入りながら失敗、責任を問われオスマン帝国に廃位される事態が発生した。トランシルヴァニアはオスマン帝国を宗主としていたが、ハプスブルク家とオスマン帝国はトランシルヴァニアを含むハンガリーを巡って争っていたため、トランシルヴァニアの内紛が両者の衝突に繋がる可能性があった。かくして、レオポルト1世は治世を通してフランスとオスマン帝国の対策に追われることになる。
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