帝位獲得と失意の廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:29 UTC 版)
「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「帝位獲得と失意の廃位」の解説
王位剥奪の危機を回避したハインリヒ4世はすぐに教皇に対する敵対行動を再開した。諸侯はハインリヒ4世に代わる王(対立王)としてシュヴァーベン大公ルドルフを立て教皇も承認したが、ハインリヒ4世は数年かけて力を蓄えてこの事態の打開に成功、1080年10月15日のエルスターの戦いでは敗北したものの、ルドルフは戦時の傷がもとで死去した。勢いに乗ったハインリヒ4世はローマを包囲、1084年に対立教皇クレメンス3世を擁立して帝冠を受けた。ハインリヒ4世の手によってグレゴリウス7世はローマを追われ、ロベルト・イル・グイスカルドに救出されたがローマに戻れずサレルノで客死した。 しかし、諸侯の反乱はなおも継続、グレゴリウス7世の後を継いだウィクトル3世とウルバヌス2世もハインリヒ4世との対決姿勢を崩さず、長男の共治王コンラートの離反まで招いた。1098年にコンラートの王位剥奪と1101年のコンラートの急死で一旦収まったが、次男のハインリヒ5世も反逆、1105年にハインリヒ5世に廃位され、翌1106年にリエージュにおいて破門の身のまま失意の内に死去した。55歳であった。
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