帝位世襲と南北対立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 帝位世襲と南北対立の意味・解説 

帝位世襲と南北対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/15 07:28 UTC 版)

バイエルン人」の記事における「帝位世襲と南北対立」の解説

神聖ローマザクセン王朝の元で中央集権図られたが、今度もまたローマ再建せんとして行われたイタリア政策失敗威信失い頓挫した大空位時代経て選帝侯による選挙王制確立されると、次第オーストリア領主であったハプスブルク家が力を持ち始め近世には殆ど帝位世襲する様になった。これによってドイツの経済的・政治的中心中南部地方集まりバイエルン人自分たちこそがドイツ人の代表を名乗る相応し存在だという自尊心与えた。それは裏を返せばゲルマン系である古代ザクセン人系譜強く引継ぎハンザ同盟通じて北欧イギリスとの文化的交流などによって中南部ドイツとは異な文化言語低ザクセン語)を有していた北ドイツ諸侯との対立意味していた。この構図は後のドイツ統一から今日に至るまで、ドイツ地方民族問題深く根差している。 南北ドイツ対立宗教改革の時代に入ると、イタリア地方に近い南ドイツカトリック堅持したのに対し北ドイツルター保護してプロテスタント帰依した事で一層に高まったドイツ農民戦争以前南ドイツルター派影響受けていたが、農民戦争以後ルターへの失望反感からカトリック主流となった)。以前からの権力闘争文化的対立、そして各地民族紛争が結びついた結果三十年戦争であり、この大戦争ドイツ地方廃墟化し人口激減し曲りなりにも国家連合として機能していた帝国事実上解体された。ヴェストファーレン条約において帝国諸勢力独立国同様の権限与えられた為、ドイツは無数の小国分けられと言って過言ではない。そして、その中にバイエルン公国オーストリア大公国などバイエルン民族占め国家、後にドイツ統一を争う事になる北方プロイセン公国存在していた。

※この「帝位世襲と南北対立」の解説は、「バイエルン人」の解説の一部です。
「帝位世襲と南北対立」を含む「バイエルン人」の記事については、「バイエルン人」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帝位世襲と南北対立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帝位世襲と南北対立」の関連用語

帝位世襲と南北対立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帝位世襲と南北対立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのバイエルン人 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS