帝位簒奪
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こうして朝廷を掌握した劉裕は義熙14年12月(419年1月)、中書侍郎の王韶之に命じて安帝を暗殺、その弟である司馬徳文を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには永初元年(420年)6月に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年の永初2年(421年)9月にはこれを殺害した。 永初3年(422年)5月21日、崩御。長男である劉義符が即位した。徐羨之・傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。 『後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。
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帝位簒奪
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司馬倫は孫秀を通じて自身に九錫を下賜するよう恵帝に働きかけ、恵帝が詔を下すと一度わざと辞退し、百官が詔書を携えて受諾するよう請うた後にこれを受諾した。これが実現すると4人の息子達もそれぞれ昇進し、孫秀や張林ら側近達も重任を委ねられた。司馬倫は相国府の兵を2万人追加し、皇帝の近衛軍である宿衛と同等の規模とし、さらに3万を越える兵を無断で養成した。そして国政を掌握した司馬倫と孫秀は、301年1月、禅譲の下準備として牙門趙奉に命じ、宣帝(司馬懿)の神語であると称して「東宮(相国府)の司馬倫は速やかに西宮(禁中)に入るように」と宣言させた。また、宣帝は北邙山にいて趙王を見守っていると称し、北邙山には新たな宣帝廟が建立された。 そして司馬倫は、義陽王司馬威(司馬孚の曾孫)を宮殿に派遣し、恵帝に禅詔(帝位を譲る詔)を作成させた。尚書令満奮と僕射崔随は符節を持ち、印章と組綬を携えて司馬倫に送り届け、宗室諸王や郡公卿士らが「天文に符瑞(帝王が即位する兆し)がある」と称して受諾するよう勧めると、ついに司馬倫はこれを受け入れた。左衛将軍王輿・前軍将軍司馬雅らは甲士を率いて入殿し、三部司馬へ禅譲が執り行われる旨を告げて「支持する者には褒賞を与える。背く者には刑を施す」と宣言し、同日夜の間に恵帝に印章と組綬を渡すよう強要した。こうして翌日、司馬倫は内外の百官が迎える中で兵5000を従えて端門より入り、太極殿に昇って帝位に即いた。 司馬倫が即位すると大赦が下され、建始と改元された。恵帝は雲母車に乗って儀仗隊数百人と共に華林西門から出て金墉城に送られ、護衛のためと称して張衡が金墉城に派遣され、太上皇とされながらも実質的な監禁状態に置かれた。また、皇太孫司馬臧は濮陽王に降格となり、1週間後に殺害された。新たな皇太子には司馬倫の世子の司馬荂が立てられ、同じく子の司馬馥を侍中・大司農・領護軍・京兆王に、司馬虔を侍中・大将軍領軍・広平王に、司馬詡を侍中・撫軍将軍・覇城王に封じ、各々兵権を与えた。 司馬倫は群臣を懐柔しようとして官爵を濫発し、司馬肜を宰相に、何劭を太宰に、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司に、司馬威を中書令に、張林を衛将軍に任じた。平南将軍孫旂の子の孫弼と弟子の孫髦・孫輔・孫琰は、孫秀に協力して司馬倫を補佐したので、司馬倫が即位すると4人とも将軍に任じられ、郡侯に封じられた。司馬倫一派はみな列卿や諸中郎将に任じられ、封賞を多数与えられた。即位に協力した者も全て破格の抜擢を受け、奴隷や士卒であっても爵位が与えられたという。当時、皇帝の近臣は蝉の羽になぞらえた金箔と貂の尾を冠につけていたが、司馬倫が官爵を濫発したので朝廷には貂蝉の冠が溢れかえった。人々は「貂が不足しているので、犬の尾がこれに続いている(犬とは役立たずの者の意)」と噂し合ったという。 この年は賢良・方正・直言・秀才・孝廉・良将の試験が行われず、大臣や郡県から推挙された者はみな官員に登用された。郡国の計吏や太学生で16歳から20歳の者も例外なく署吏に取り立てられた。大赦が行われた日に在職していた郡太守や県令は全て封侯され、郡の小官吏は孝廉に、県の小吏は廉吏に取り立てられた。彼らに下賜する賞賜が巨額になったので国庫が不足してしまい、封侯者に渡す印綬が足りなくなってしまい、文字が書かれていない板が代わりに配られた。そのため官吏たちはむしろ賞賜を受ける事を恥と思うようになり、百姓ですら司馬倫が天寿を全うしないのを確信していたという。 孫秀は司馬倫の皇帝即位に非常な大功があったので、さらに司馬倫はこれを厚遇し、かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。司馬倫が詔を下した時は孫秀がいつも改変し、取捨を行って自ら青紙に書き写して詔書とした。朝に出された勅命が夜には変えられた事が3・4度に及び、百官の異動も流水のように頻繁に行われた。また孫秀と対立していた張林は孫秀を讒言したが、逆に孫秀の進言を受けた司馬倫は張林を三族と共に誅滅した。
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帝位簒奪
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光啓2年(886年)、朱温(後の朱全忠)が亳州に向かった際に召した妓娼が生んだ庶子である。すぐ上の兄は早世したために名は不詳である。誕生した後に父に迎えられた朱友珪は、少年時代から優れた素質を見せていた長兄の朱友裕とよく比較されて、父から露骨に疎まれたという。そのために、朱友珪は粗暴で残忍な性格に育ったと言われている。 開平元年(907年)に郢王に封じられた。開平4年(910年)に左右控鶴都指揮使に任じられ、諸軍都虞候も兼務したが、晋王李存勗の軍勢との戦いで敗戦が相次いだため、激怒した父から「私の息子は豚犬以下だ」と罵られた。 その後、父が仮子の博王朱友文に帝位を譲ることを考慮し、実子の朱友珪を萊州刺史として左遷しようとした(後継者である長男の朱友裕には既に先立たれていた)。この後継工作を朱全忠の側に侍っていた夫人の張氏から全て聞かされた朱友珪は先手を打って、朱全忠の重臣に対する非道な行いに不満と恐怖を抱いていた左龍虎軍(近衛軍)を味方に引き入れ、500人の兵を率いて宮中に乱入し、乾化2年(912年)に朱全忠を暗殺した。 朱友珪はさらに朱全忠暗殺の責任を全て朱友文に被せて、妻子共々に処刑した。そして偽詔を発して皇帝に即位した。
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