帝位簒奪とは? わかりやすく解説

帝位簒奪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)

劉裕」の記事における「帝位簒奪」の解説

こうして朝廷掌握した劉裕義熙14年12月419年1月)、中書侍郎王韶之命じて安帝暗殺、その弟である司馬徳文新たな皇帝恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾さらには永初元年420年6月恭帝禅譲を受け、皇帝即位した。また帝位退いた恭帝零陵王に降封したが、翌年永初2年421年9月にはこれを殺害した永初3年422年5月21日崩御長男である劉義符が即位した徐羨之傅亮檀道済謝晦らが後事託された。 『後漢書』作者范曄『三国志』注釈行った裴松之五胡十六国時代南北朝時代代表する詩人陶淵明劉裕仕えていた。また、『世説新語』撰者臨川康王劉義慶劉裕の甥にあたる。

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帝位簒奪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)

司馬倫」の記事における「帝位簒奪」の解説

司馬倫孫秀通じて自身九錫下賜するよう恵帝働きかけ恵帝が詔を下す一度わざと辞退し百官詔書携えて受諾するよう請うた後にこれを受諾した。これが実現すると4人の息子達それぞれ昇進し孫秀張林側近達も重任委ねられた。司馬倫相国府の兵を2万追加し皇帝近衛軍である宿衛同等規模とし、さらに3越える兵を無断養成した。そして国政掌握した司馬倫孫秀は、301年1月禅譲下準備として牙門趙奉に命じ宣帝司馬懿)の神語であると称して東宮相国府)の司馬倫速やかに西宮禁中)に入るように」と宣言させた。また、宣帝は北邙山にいて趙王見守っていると称し、北邙山には新たな宣帝廟が建立された。 そして司馬倫は、義陽王司馬威(司馬孚曾孫)を宮殿派遣し恵帝に禅詔(帝位を譲る詔)を作成させた。尚書令満奮僕射崔随は符節持ち印章組綬携えて司馬倫送り届け宗室諸王や郡公卿士らが「天文に符瑞(帝王即位する兆し)がある」と称して受諾するよう勧めると、ついに司馬倫はこれを受け入れた。左衛将軍王輿前軍将軍司馬雅らは甲士を率いて入殿し、三部司馬禅譲執り行われる旨を告げて支持する者には褒賞与える。背く者には刑を施す」と宣言し同日夜の間に恵帝印章組綬を渡すよう強要した。こうして翌日司馬倫内外百官迎える中で兵5000従えて端門より入り太極殿に昇って帝位に即いた。 司馬倫即位する大赦下され建始改元された。恵帝雲母車に乗って儀仗隊数百と共に林西門から出て金墉城に送られ護衛のためと称して張衡金墉城に派遣され太上皇とされながらも実質的な監禁状態に置かれた。また、皇太孫司馬臧は濮陽王に降格となり、1週間後殺害された。新たな皇太子には司馬倫世子司馬荂が立てられ同じく子の司馬馥を侍中大司農・領護軍京兆王に、司馬虔を侍中大将軍領軍・広平王に、司馬詡を侍中・撫軍将軍・覇城王に封じ各々兵権与えた司馬倫群臣懐柔ようとして官爵濫発し、司馬肜宰相に、何劭を太宰に、孫秀侍中中書監驃騎将軍儀同三司に、司馬威中書令に、張林衛将軍任じた平南将軍孫旂の子の孫弼と弟子の孫髦・孫輔・孫琰は、孫秀協力して司馬倫補佐したので、司馬倫即位すると4人とも将軍任じられ、郡侯に封じられた。司馬倫一派はみな列卿や諸中郎将任じられ、封賞を多数与えられた。即位協力した者も全て破格抜擢を受け、奴隷士卒であっても爵位与えられたという。当時皇帝近臣蝉の羽なぞらえた金箔と貂の尾を冠につけていたが、司馬倫官爵濫発したので朝廷には貂蝉の冠が溢れかえった人々は「貂が不足しているので、の尾がこれに続いている(とは役立たずの者の意)」と噂し合ったという。 この年賢良・方正直言秀才孝廉良将試験が行われず、大臣や郡県から推挙された者はみな官員登用された。郡国の計吏や太学生16歳から20歳の者も例外なく署吏に取り立てられた。大赦が行われた日に在職していた郡太守県令全て封侯され、郡の小官吏は孝廉に、県の小吏廉吏取り立てられた。彼らに下賜する賞賜巨額になったので国庫不足してしまい、封侯者に渡す印綬足りなくなってしまい、文字書かれていない板が代わりに配られた。そのため官吏たちはむしろ賞賜を受ける事を恥と思うようになり、百姓ですら司馬倫天寿を全うしないのを確信していたという。 孫秀司馬倫皇帝即位に非常な大功があったので、さらに司馬倫はこれを厚遇し、かつて文帝司馬昭相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。事の大小かかわらず、すべて孫秀許可得てから実行移された。司馬倫が詔を下した時は孫秀がいつも改変し、取捨行って自ら青紙書き写して詔書とした。朝に出され勅命夜に変えられた事が3・4度に及び、百官異動流水のように頻繁に行われた。また孫秀対立していた張林孫秀讒言したが、逆に孫秀進言受けた司馬倫張林三族と共に誅滅した。

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帝位簒奪

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朱友珪」の記事における「帝位簒奪」の解説

光啓2年886年)、朱温(後の朱全忠)が亳州向かった際に召した妓娼が生んだ庶子である。すぐ上の兄は早世したために名は不詳である。誕生した後に父に迎えられ朱友珪は、少年時代から優れた素質見せていた長兄朱友裕とよく比較されて、父から露骨に疎まれたという。そのために、朱友珪粗暴残忍な性格育ったと言われている。 開平元年907年)に郢王に封じられた。開平4年910年)に左右指揮使に任じられ諸軍都虞候も兼務したが、晋王李存勗軍勢との戦いで敗戦相次いだため、激怒した父から「私の息子豚犬以下だ」と罵られた。 その後、父が仮子の博王朱友文帝位を譲ることを考慮し実子朱友珪萊州刺史として左遷しようとした後継者である長男朱友裕には既に先立たれていた)。この後工作朱全忠の側に侍っていた夫人の張氏から全て聞かされ朱友珪先手打って朱全忠重臣対す非道な行いに不満と恐怖抱いていた左龍虎軍(近衛軍)を味方引き入れ500人の兵を率いて宮中乱入し乾化2年912年)に朱全忠暗殺した朱友珪はさらに朱全忠暗殺責任全て朱友文被せて、妻子共々処刑した。そして偽詔を発して皇帝即位した

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