徐羨之
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徐 羨之(じょ せんし、興寧2年(364年)- 元嘉3年1月16日[1](426年2月8日))は、南朝宋の政治家。字は宗文。本貫は東海郡郯県。兄の徐欽之の子は徐逵之(劉裕の長女の会稽長公主劉興弟の夫で、徐湛之の父)。南朝宋の建国者である劉裕に従い、少帝の補佐を託されるが、傅亮と謀り、文帝を即位させた。
- ^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉三年正月丙寅条による。
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「羨之少為王雅太子少傅主簿、劉牢之鎮北功曹、尚書祠部郎、不拜、桓脩撫軍中兵曹参軍」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「與高祖同府、深相親結。義旗建、高祖版為鎮軍参軍・尚書庫部郎・領軍司馬……」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「吾位至二品、官為二千石、志願久充。今二方已平、拓地萬里、唯有小羌未定、而公寝食不忘。意量乖殊、何可輕豫」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「劉穆之卒、高祖命以羨之為吏部尚書・建威将軍・丹陽尹……」
- ^ 『南史』巻15, 徐羨之伝「帝欲用王弘代之。謝晦曰:「休元輕易、不若徐羨之。」」
- ^ 『資治通鑑』巻120,「営陽王居喪無礼、好與左右狎暱、遊戯無度」
- ^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「徐羨之等嫌義真與霊運・延之暱狎過甚」
- ^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「乃廃義真為庶人、徙新安郡」
- ^ 『宋書』巻61, 武三王伝「前吉陽令堂邑張約之上疏諫曰……書奏、以約之為梁州府参軍、尋又見殺」
- ^ 『宋書』巻43, 檀道済伝「徐羨之将廃廬陵王義真、以告道済、道済意不同、屡陳不可、不見納」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「中書舎人邢安泰・潘盛為内應、其日守関。道済領兵居前、羨之等継其後、由東掖門雲龍門入、宿衛先受處分、莫有動者」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「遣使殺義真於新安、殺帝於呉県」
- ^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「太祖即阼、進羨之司徒、餘如故、改封南平郡公、食邑四千戸、固譲加封」
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