少帝 (南朝宋)とは? わかりやすく解説

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少帝 (南朝宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/14 13:02 UTC 版)

少帝 劉義符
第2代皇帝
王朝
在位期間 永初3年5月21日 - 景平2年5月25日
422年6月26日 - 424年7月7日
都城 建康
姓・諱 劉義符
車兵(小字)
諡号 少帝
生年 義熙2年(406年
没年 景平2年6月24日
424年8月4日
武帝
張夫人
后妃 司馬皇后
年号 景平 : 423年 - 424年

少帝(しょうてい)は、南朝の第2代皇帝義符、小字は車兵。

生涯

義熙2年(406年)、劉裕張夫人のあいだの長男として京口で生まれた。義熙11年(415年)、豫章公世子に立てられた。義熙12年(416年)12月、宋公世子となった。元熙元年(419年)12月、宋王太子となった。永初元年(420年)6月に武帝(劉裕)が皇帝に即位すると、8月に劉義符は皇太子として立てられた。

永初3年(422年)5月、武帝が崩御すると、劉義符が皇帝として即位した。中書監の傅亮司空徐羨之・領軍将軍の謝晦らが少帝(劉義符)を補佐した。また武帝の死を聞いて北魏の軍が侵攻してきたが、景平元年(423年)4月に檀道済が北伐して虎牢で魏軍を撃破した。少帝は武帝の喪中にあっても礼を守らず、側近たちと馴れ合い、遊戯に節度がなかったため、朝廷の諸官らの失望を買った。景平2年(424年)5月、徐羨之らは皇太后の令と称して少帝を退位させた。徐羨之らは少帝の弟の劉義隆(文帝)を即位させた。

退位した少帝は、営陽王に封じられ、東宮に身柄を移され、さらに呉郡に移されて金閶亭に幽閉された。6月、徐羨之の派遣した中書舎人の邢安泰の手によって殺害された。

伝記資料

  • 宋書』巻4 本紀第4 少帝
  • 南史』巻1 宋本紀上第1 少帝
先代
武帝
宋(劉宋)皇帝
第2代:422年 - 424年
次代
文帝



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