劉劭_(南朝宋)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉劭_(南朝宋)の意味・解説 

劉劭 (南朝宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 13:23 UTC 版)

劉劭
皇帝
王朝
在位期間 元嘉30年2月21日 - 5月4日
453年3月16日 - 5月27日
姓・諱 劉劭
休遠
諡号
廟号
生年 元嘉元年(424年
没年 元嘉30年5月4日
453年5月27日
文帝
袁皇后
后妃 殷皇后
陵墓
年号 太初 : 453年

劉 劭(りゅう しょう)は、南朝の皇帝。は休遠。父の文帝を殺害して即位したが、3カ月で廃位・処刑された。

正史である『宋書』では元凶劭という名で列伝に記されて、正当な皇帝とみなされていない。このため、一般的には南朝宋の歴代皇帝に数えられていない。

人物

元嘉6年(429年)、6歳の時に文帝の皇太子に立てられる。元嘉30年(453年)、劉劭が呪詛を行ったとして、文帝は劉劭の廃立を検討するが、その動きを察知した劉劭は異母弟の劉濬とともに挙兵、夜間宮殿に侵入し、父の文帝を殺害した。その後、自ら皇帝に即位し、元嘉30年を太初改元した。踰年改元を行わないことは当時の慣例に違う行為であった。

3カ月後、弟(文帝の三男)の武陵王劉駿(孝武帝)が将軍沈慶之の支援の下建康城内に侵入、劉劭は捕らえられ、後に処刑され、遺灰は長江に投げ捨てられた。

宗室

妻妾

いずれも劉駿に処刑された。

子女

  • 男子:劉偉之、劉迪之、劉彬之
  • 女子

いずれも劉駿に処刑された。

伝記資料

  • 宋書』巻99 列伝第59
先代
文帝
宋(劉宋)皇帝
(453年)
次代
孝武帝



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉劭_(南朝宋)」の関連用語

1
100% |||||


3
74% |||||

4
70% |||||

5
56% |||||

6
54% |||||

7
52% |||||

8
52% |||||

9
38% |||||

10
38% |||||

劉劭_(南朝宋)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉劭_(南朝宋)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉劭 (南朝宋) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS