桓楚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 03:18 UTC 版)
- 桓楚
- 楚
-
403年 - 405年 -
公用語 中国語 首都 建康 - 皇帝
-
403年 - 404年 桓玄 404年 - 405年 桓謙 405年 - 405年 桓振 405年 - 405年 桓石綏 - 変遷
-
東晋より禅譲、建国 403年 劉裕のクーデター 404年 東晋に禅譲、滅亡 405年
桓楚(かんそ)は、東晋の時代に楚王桓玄が建てた短命の政権である(403年 - 404年)。
歴史
403年(元興2年)、東晋の実権を掌握した楚王桓玄が、安帝に禅譲を迫り、帝位を譲り受ける形で成立した政権である。
403年12月20日、安帝は玉璽を献上し、桓玄に譲位した。404年1月1日、桓玄は正式に皇帝に即位し、国号を楚と改め、永始に改元した。その他の楚を国号とする王朝・政権と区分するために、桓玄が建てたこの政権は桓楚と呼ばれる。
名目上は、桓楚は建国後、直接、東晋の領土を継承したが、実際はその勢力範囲は江陵以東の長江中下流域一帯に留まった。
建国から僅か3カ月後の404年、劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、何無忌・徐羨之・諸葛長民・檀道済・劉毅らも劉裕に呼応、敗れた桓玄は建康(現在の江蘇省南京市)を脱出して安帝を人質にして西へ逃れたところを、子の桓昇とともに益州都護の馮遷によって殺害され、従兄弟の桓謙が安帝に国璽を奉還して桓楚は滅亡した。
桓楚滅亡後、桓氏一族は兵を起こして東晋軍に対抗し、敗れるまでの数年間、長江中流域一帯で存続した。
桓楚の指導者
廟号 | 諡号 | 年号 | 姓名 | 生没年 | 在位期間 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
皇帝 | |||||||
太祖 | 宣武皇帝 | - | 桓温 | 312年 - 373年 | - | ||
- | 武悼皇帝 | 永始 | 桓玄 | 369年 - 404年 | 403年 - 404年 | ||
帝位未就者 | |||||||
- | - | 天康 | 桓謙 | ? - 410年 | 404年 - 405年 | ||
- | - | - | 桓振 | ? - 405年 | 405年 | ||
- | - | - | 桓石綏 | ? - 405年 | 405年 |
系図
|
|
|
|
|
|
|
|
桓彝 |
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||
(追)宣武帝 桓温 |
|
桓豁 |
|
|
|
|
|
(追)宣城王 桓沖 |
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
武悼帝 桓玄 |
|
桓石虔 |
|
桓石綏 |
|
安郡王 桓謙 |
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
桓振 |
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
参考文献
関連項目
|
|
|
桓楚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:21 UTC 版)
「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事における「桓楚」の解説
もともとは会稽郡付近の塗山の山賊の頭目で鼎を持ち上げた項羽に圧倒されて、その説得に応じ、于英(羽嬰?)と共に配下に加わる。昔なじみの英布を項羽の配下に加わらせる。四面楚歌の状況に陥った際も周蘭と共に項羽に殉ずる覚悟を決め、曹参の軍と正面衝突して追いつめられ、自害して果てる。
※この「桓楚」の解説は、「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「桓楚」を含む「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事については、「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。
- >> 「桓楚」を含む用語の索引
- 桓楚のページへのリンク