丁零
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/16 00:51 UTC 版)
丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令[1]・丁霊[2]・勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀では勅勒[3]、5世紀~6世紀では高車[4]、6世紀~8世紀では鉄勒[5](てつろく)とも呼ばれた。
- ^ 『漢書』匈奴伝、『後漢書』南匈奴列伝、『魏略』西戎伝(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝)
- ^ 『史記』匈奴列伝
- ^ 『晋書』、『資治通鑑』
- ^ 『魏書』、『北史』
- ^ 『北史』、『隋書』、『旧唐書』
- ^ Boodberg, Peter A., "Three Notes on the T'u-chüeh Turks", University of California publications in Semitic Philology, Berkeley and Los Angels, v.11, (1951)
- ^ 『騎馬民族史1』p220 注8、p252 注3、p257 注9
- ^ 白鳥 1970,p42
- ^ 「烏掲」とも記され、のちのテュルク系民族オグズ(Oγuz)の祖先とされる。
- ^ 『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18
- ^ 『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝
- ^ 護雅夫は『魏略』が伝える西から堅昆→丁令→呼得の順を、北からに置き換え、イェニセイ川流域、つまりバイカル湖の北西に堅昆・丁令・呼得がいたとし、バイカル湖南の丁令も、康居の北の丁令も位置は変わらず同じ種族であるとした。
- ^ 内田吟風は『魏略』の位置関係を順守している。
- ^ 『魏書』(列伝第八十三)、『晋書』(載記第十三、載記第十四、載記第二十三)、『資治通鑑』(巻第九十四、巻第一百三、巻第一百五、巻第一百六、巻第一百七、巻第一百八)
- ^ 『魏書』列伝第九十一「唯車輪高大,輻数至多。」、『北史』列伝第八十六「唯車輪高大,輻数至多。」
丁零
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 01:59 UTC 版)
詳細は「丁零」を参照 丁零はモンゴル高原北地を故地とするトルコ系の遊牧民族である。鮮卑が檀石槐の死後に勢いを失うと南下して三国時代には戦闘力と使われるなど、中国内地に部分的に住んでいた。基本的に丁零の翟氏は華北の国に服属していたが、後燕から独立して翟魏(十六国に含まれない)を建てた。
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丁零(ていれい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 20:39 UTC 版)
詳細は「丁零」を参照 「丁零」或いは「丁令」と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。 丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。
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