檀石槐の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:50 UTC 版)
檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連が代わって立った。和連には父親ほどの素質や能力もなく、しかも貪欲淫乱で、裁きが不公平だったため、部下の半数はその命令を聞かなくなった。霊帝の末年、しばしば侵略を行い、北地郡を攻めたが、北地の庶民で弩に巧みな者がおり、和連はそこで射殺された。和連の子の騫曼は幼かったので、兄の子の魁頭が代わって立った。魁頭が立ってしばらくして、騫曼が成長すると、両者は国を争い、部下は離反してしまった。魁頭が死ぬと、弟の歩度根が代わって立った。檀石槐の死後は大人たちの位はみな世襲されることになったのである。 鮮卑は、歩度根が指導者になってから、その部族の勢いがやや衰え、彼の次兄に当たる扶羅韓がまた別に数万の衆を擁して大人となった。建安年間に、曹操が幽州を平定すると、歩度根は軻比能らとともに護烏桓校尉の閻柔を通じて、朝廷に献上物を送った。のちに代郡の烏丸の能臣氐(のうしんてい)らは、漢の支配に叛き、扶羅韓に、その配下に入りたいと通知した。扶羅韓は1万余騎を従えて迎えに出た。桑乾まで来たとき、能臣氐らは話し合い、扶羅韓の配下は彼の命令に十分に服していないから、結局はそこに身を落ち着けることはできないだろうということで、別に使者を送り、軻比能に連絡を取った。軻比能はすぐさま1万余騎を率いてやってくると、ともども会盟を行うことになった。軻比能はその会盟の席上で扶羅韓を殺し、扶羅韓の子の泄帰泥とその配下の者はすべて軻比能の指揮下に入った。軻比能は自分が泄帰泥の父親を殺していることから、泄帰泥には特別に目をかけた。歩度根は、こうしたことから軻比能を仇敵とみなすようになった。 魏の文帝(曹丕)が漢より禅譲を受けて即位すると、田豫が護烏桓校尉に任ぜられ、持節の権限を持ち、護鮮卑校尉も兼ねて、昌平に駐屯した。歩度根は使者を送って馬を献上し、帝は歩度根に王の位を授けた。のちしばしば軻比能と戦闘を交えたが、歩度根の配下はだんだんと減り弱体となったため、その配下の1万余戸を率いて太原郡と雁門郡とに入って安全を計った。歩度根はそのあと使者を送り、泄帰泥に誘いをかけ、泄帰泥はその部族民たちを引き連れて逃亡し、歩度根のもとに身を置いた。 黄初5年(224年)になって、歩度根は朝廷に参内し献上物を捧げ、手厚い賜り物を授かった。これ以後はひたすら辺境の守りに努めて、侵入略奪を行うことはなかった。一方、軻比能の部族はますます勢力を強めた。魏において明帝(曹叡)が即位すると、異民族との関係を努めて平和にして軍事行動をなくそうとし、2つの部族を名目的に魏の支配下に繋ぎ止めておくだけにとどまった。 青龍元年(233年)になって、軻比能のほうから誘いかけて歩度根と堅固な和親関係を結んだ。このようにして歩度根は泄帰泥と部族民全部を率いて軻比能の配下に身を寄せると、并州を犯して略奪を働き、役人や民衆を殺害し俘虜として連れ去った。帝は驍騎将軍の秦朗を征伐に向かわせた。泄帰泥は軻比能に叛いて、その部族民を率いて朝廷に降服すると、帰義王の位を授かり、元通り并州に居住することを許された。歩度根は軻比能に殺された。
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