檀石槐の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:50 UTC 版)
桓帝の時代、投鹿侯(とうろくこう)の子の檀石槐が大人の位に就くと、高柳の北、300余里の弾汗山(だんかんさん)・啜仇水(せつきゅうすい)のほとりにその本拠を置いた。東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令の南下を阻み、東では夫余を撃退させ、西では烏孫に攻撃をかけた。かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めた。漢の朝廷はこれを患え、使匈奴中郎将の張奐を送って討伐させたが、勝つことができなかった。そこで今度は使者を送り印綬を授けて、檀石槐を王の位に封じ、和親を通じようとした。檀石槐は拒絶して受け取らず、侵入略奪はますます激しくなった。 こうして勢力を拡大した檀石槐は、自らの領有する土地を東・中・西の3部に分けた。右北平から東方は遼東の夫余や濊貊(わいはく)と接するあたりまでを東部とした。そこには20余の邑があり、その地の大人は、弥加(びか)・厥機(けつき)・素利(そり)・槐頭(かいとう)と呼ばれる者たちであった。右北平から西方の上谷に至るまでを中部とした。そこには10余の邑があり、その地の大人は、柯最(かさい)・闕居(けつきょ)・慕容(ぼよう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥(たいすい、総指揮官)でもあった。上谷から西方の敦煌まで、西方の烏孫と接する所までを西部とした。そこには20余の邑があり、その地の大人は、置鞬落羅(ちけんらくら)・日律推演(じつりつすいえん)・宴茘游(えんれいゆう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥であり、みな檀石槐の支配を受けていた。 霊帝の時代になると、彼らは幽州・并州の2州で盛んに略奪を行い、国境地帯の諸郡は、鮮卑から酷い損害を受けない年はなかった。 熹平6年(177年)、護烏桓校尉の夏育(かいく)・破鮮卑中郎将の田晏(でんあん)・使匈奴中郎将の臧旻(そうびん)を派遣し、南単于(屠特若尸逐就単于)の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、3隊に分かれて並行して進み、2000余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。この頃、鮮卑の人口が増え農耕牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなり、川魚を獲って食料とした。
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