檀石槐登場前とは? わかりやすく解説

檀石槐登場前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:50 UTC 版)

鮮卑」の記事における「檀石槐登場前」の解説

漢代初め匈奴冒頓単于東胡滅ぼした際、その生き残り烏桓山と鮮卑山に逃れそれぞれ烏桓鮮卑になった鮮卑はしばらく匈奴のもとにいたが、匈奴南北分かれその力が衰えてくると、勢力盛り返すようになった建武30年54年)、鮮卑大人たいじん部族長)の於仇賁おきゅうほん)は部族民を引き連れて都の洛陽上って朝貢をし、光武帝から王に封じられる永平年間に、祭肜遼東太守となると鮮卑誘いをかけ賂を送って、漢の命令従わない烏桓の欽志賁(きんしほん)らの首を取らせた永元6年94年)、鮮卑大都護の校尉抜廆(そばつかい)は、部族民を率いて護烏桓校尉の任尚に従い南匈奴反抗者たちを討伐した。その功により、朝廷抜廆を率衆王に封じた殤帝延平元年106年)、鮮卑東へ移動始め長城中に入って漁陽太守の張顕を殺した安帝時代鮮卑大人の燕茘陽(えんれいよう)が入朝した。朝廷彼に鮮卑王の印綬授けた。これ以後鮮卑は、あるときは反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴烏桓争った安帝末年国境地帯から歩兵騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。のちに鮮卑の8000-9000の騎馬兵代郡馬城の砦を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した朝廷度遼将軍の鄧遵(とうじゅん)を派遣して長城出て追撃させ、これを打ち破った鮮卑大人烏倫(うりん)・其至鞬きしけん)ら7000余人が鄧遵のもとに降伏申し入れてきた。そこで朝廷は烏倫を王に封じ其至鞬には侯の位を与えた。鄧遵が去ったあと、其至鞬またもや叛き、護烏桓校尉馬城包囲した度遼将軍耿夔幽州刺史とが救援に赴き、包囲崩した其至鞬はこれ以後ますますその勢力盛んにし、長城内部侵入して五原郡曼柏(まんはく)に向かい匈奴の南単于攻撃をかけ、左薁鞬日逐王(さいくけんじつちくおう)を殺した順帝時代、再び長城内部侵入し代郡太守殺した朝廷長城付近に軍を駐屯させ、南単于1万余人率い、漢の軍を援助して鮮卑攻撃加え、これをしりぞけた。こののち護烏桓校尉の耿曄は、烏桓大人都尉の戎末廆(じゅうまつかい)を率いて長城を出ると鮮卑攻撃をくわえ、鮮卑の中の首領格の者たちを多く斬った。その結果鮮卑の3万余落は、遼東郡役所降服申し入れてきた。

※この「檀石槐登場前」の解説は、「鮮卑」の解説の一部です。
「檀石槐登場前」を含む「鮮卑」の記事については、「鮮卑」の概要を参照ください。

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