烏桓・鮮卑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:10 UTC 版)
匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の壺衍鞮単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も前漢時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、檀石槐の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、拓跋部,慕容部,宇文部,段部といった勢力が生まれ、五胡十六国時代、南北朝時代をもたらした。
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