烏桓征伐とその死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 15:46 UTC 版)
詳細は「白狼山の戦い」を参照 戦いに敗れた袁尚は幽州の袁煕を頼ったが、幽州でも反乱が起き、敗れた袁尚らは烏桓へと落ち延びた。 曹操が袁尚討伐と三郡の烏桓征伐を計画した時、張遼ら部下の多くは劉表が劉備を使って許都を襲わせるのではないかと危惧した。しかし郭嘉は「劉表は、自分が劉備を使いこなす器でない事を自覚しているので、重用する事はありません。安心して遠征する事ができます」と言い、懸念を打ち払った。果たして劉備は動かなかった。 曹操の遠征軍が到達すると、郭嘉は「兵は神速を貴びます(兵貴神速)。いま千里先の敵を襲撃するゆえ輜重は多く、有利に彼地へたどり着くことは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を通常の倍速で行軍させて、彼らの不意を衝くべきです」と献策した。曹操はこの策を採用して蹋頓らを斬り、烏桓族を討伐することに成功した。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。軍師祭酒の後任には董昭が任命された(「董昭伝」)。 曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、葬儀において荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだった」と残念がった。 曹操は献帝に上奏し、その遺領を800戸を加増し、合わせて1000戸とした。貞侯と諡され、子が爵位を継いだ。 建安13年(208年)、曹操は荊州征伐において巴丘で疫病に苦しめられ、船を焼いて撤退した(赤壁の戦い)。この時、曹操は「もし奉孝がいてくれたなら、このようなことにならなかったろうに」と嘆いている。 景元3年(262年)、曹奐(元帝)の時代になって曹操の廟庭に功臣として祭られた(「陳留王紀」)。夏侯惇・曹仁・程昱の3人が曹叡(明帝)の時代に、他21人が曹芳(斉王)の時代に祭られたが、郭嘉が祭られたのは非常に遅かった。裴松之は、程昱を祭って郭嘉を残していた趣旨が分からないと述べている。
※この「烏桓征伐とその死」の解説は、「郭嘉」の解説の一部です。
「烏桓征伐とその死」を含む「郭嘉」の記事については、「郭嘉」の概要を参照ください。
- 烏桓征伐とその死のページへのリンク