蹋頓とは? わかりやすく解説

蹋頓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 20:43 UTC 版)

蹋頓
後漢
烏桓王
出生 生年不詳
遼西烏桓
死去 建安12年(207年
拼音 Tà Dùn
主君 袁紹
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蹋頓(とうとん、? - 建安12年(207年))は、中国後漢末期の人物。遼西烏桓の大人(部族長)。従父は丘力居。『三国志』では「烏丸鮮卑東夷伝」などに記述がある。

生涯

丘力居の死後、その子の楼班が幼かったため、彼がその後を継いで部族を統率し、上谷烏桓の難楼・遼東属国烏桓の蘇僕延・右北平烏桓の烏延を、自身の配下に置いた。

蹋頓は武勇に優れた人物で、命令がよく行き届いた。

袁紹公孫瓚の抗争がまだ続いていた時、蹋頓は袁紹と早くから誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫瓚を破ると朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で各々を単于に任命した。

楼班が成長すると、蘇僕延は楼班を奉じて単于に擁立し、蹋頓を王とした。

袁煕袁尚兄弟が逃れて来るとそれを匿ったため、206年曹操の攻撃を受けた(白狼山の戦い)。烏桓の軍勢は、柳城の100里手前にある白狼山で張遼を先鋒とした曹操軍と遭遇し、袁尚らと共に勇敢に戦ったが、曹操の軍略の前に敗れ大敗した。蹋頓は虎豹騎を率いていた曹純に捕縛され斬られた。

楼班・速附丸・烏延・蘇僕延は袁尚らとともに遼東に逃げ込んだが、太守公孫康により袁煕・袁尚兄弟らとともに殺害されている。これにより三郡の烏桓は敗れ、残った代郡の烏桓も降伏した。その後、烏桓は曹操に服属し、騎兵を提供するなど有力な兵力供給源となった。

小説『三国志演義』では袁紹と友好関係にあった事から、袁煕・袁尚らが曹操に敗れ頼って来ると、袁尚に協力して曹操と戦う。最後は張遼に敗れて斬り殺される事になっている。

参考資料

  • 『三国志』[要文献特定詳細情報]

蹋頓(とうとつ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「蹋頓(とうとつ)」の解説

烏丸族酋長。烏を思わせる怪奇な容貌をしており、戦においても異能をみせる。袁煕いわく「人間じゃない」。袁煕袁尚ら袁軍の残党迎え入れ北方騎馬民族の力により漢民族超えようとする。郭嘉張遼率い曹操軍敗れ捕縛曹操の前で自身考える「天下」を語るが、それが曹操勘気触れ曹操自らの手処刑された。

※この「蹋頓(とうとつ)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「蹋頓(とうとつ)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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