蹋頓の登場
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漢の末年、遼西烏桓の大人丘力居(きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏桓の大人難楼(なんろう)は、9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏桓の大人蘇僕延(そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏桓の大人烏延は800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。中山太守の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏桓の総指揮者となり、青・徐・幽・冀の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪を行なった。霊帝の末年、劉虞が幽州の牧に任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子の楼班は年が若く、従子の蹋頓に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。人々はみな彼の命令をよく聞いた。袁紹が公孫瓚と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延に印綬を与えて、それぞれ単于の称号を与えた。 のちに楼班が成長すると、峭王(蘇僕延)はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の閻柔は若い時捕らえられて烏桓と鮮卑のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、護烏桓校尉の邢挙を殺すと、自ら護烏桓校尉の官に就いた。袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに袁紹の三男である袁尚が曹操に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで冀州奪回を目論んだ。ちょうどその頃、曹操は河北を平定し、閻柔は鮮卑と烏桓を引き連れて曹操のもとに帰順した。そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏桓校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり上谷郡寧城で職務にあたらせた。 建安11年(206年)、曹操は自ら柳城の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵を率いて凡城に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた(白狼山の戦い)。速附丸・楼班・烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。これらの者たちを、幽州と并州で閻柔の配下にあった烏桓1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、曹操の軍に加わらせた。こうして三郡の烏桓は騎兵としての名が天下に聞こえた。
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