蹋頓の登場とは? わかりやすく解説

蹋頓の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:19 UTC 版)

烏桓」の記事における「蹋頓の登場」の解説

漢の末年遼西烏桓大人丘力居きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏桓大人難楼なんろう)は、9000余りの落を配下置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏桓大人蘇僕延(そぼくえん)は1000余りの落を配下置いて勝手に峭王と号し右北平烏桓大人烏延800余りの落を配下置いて勝手に魯王号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった中山太守張純は、逃亡し丘力居配下に入ると、自ら弥天安定王号し、三郡の烏桓総指揮者となり、青・徐・幽・冀の四州攻略し役人民衆殺し略奪行なった霊帝末年劉虞幽州の牧に任ぜられると、異民族の間に恩賞約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子班は年が若く従子蹋頓武略があったので、蹋頓が代わって立って三王配下統括した。人々はみな彼の命令をよく聞いた袁紹公孫瓚幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓使者袁紹のもとに送って和親求め袁紹助けて公孫瓚攻撃し、これを打ち破った袁紹勝手に朝廷命令偽造し蹋頓難楼蘇僕延烏延印綬与えてそれぞれ単于称号与えた。 のちに班が成長すると、峭王(蘇僕延)はその配下取りまとめつつ、班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓策略めぐらすことを好む人物であった広陽閻柔は若い時捕らえられ烏桓鮮卑のもとに連れてこられたが、次第異民族たちの崇敬集めるようになっていた。そこで閻柔鮮卑部族力を借りて護烏桓校尉の邢挙を殺すと、自ら護烏桓校尉の官に就いた袁紹はこれを利用し閻柔手厚く扱うことによって北辺安定計った。のちに袁紹三男である袁尚曹操敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで冀州奪回目論んだ。ちょうどその頃曹操河北平定し閻柔鮮卑烏桓引き連れて曹操のもとに帰順した。そこで曹操引き続いて閻柔護烏桓校尉任じ、漢の使節与えて以前どおり上谷郡寧城職務にあたらせた。 建安11年206年)、曹操は自ら柳城蹋頓撃った秘密裏軍勢動かし間道通ったが、柳城の手100里余りの所で敵軍発見された。袁尚蹋頓とともに兵を率いて凡城に曹操迎え撃ち、その兵馬はなはだ盛んであった曹操小高い場所に登って、敵の陣営見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし敵兵打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り死者は野を埋めた白狼山の戦い)。速附丸班・烏延らは遼東郡逃げ込んだが、遼東郡役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬曹操のもとにもたらしたそれ以外散り散りに残った者たちもみな降伏した。これらの者たちを、幽州并州閻柔配下にあった烏桓1万余りの落と一緒にし、部族挙げて漢の内地移住させた。彼らのうちの王侯大人指揮下にある異民族兵士たち統合し曹操の軍に加わらせた。こうして三郡の烏桓騎兵としての名が天下聞こえた

※この「蹋頓の登場」の解説は、「烏桓」の解説の一部です。
「蹋頓の登場」を含む「烏桓」の記事については、「烏桓」の概要を参照ください。

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