烏桓と対峙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:04 UTC 版)
207年秋、曹操は大凌河の渓谷に達し、蹋頓らはそこでようやく曹操軍が間近に迫っていることに気づき、烏桓軍は驚き慌てた。蹋頓は、すぐに袁尚・袁煕及び遼西単于楼班・右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて出撃した。両軍は白狼山(現在の遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県)で突然遭遇した。このとき曹操軍の輜重は後方にあったため軍は軽騎兵のみで構成されており、一方の烏桓軍は勢い盛んであり、曹操軍は恐慌した。斜面に追いやられた曹操は、張遼の申し出を許して指揮の旗を任せ、張遼と張郃を先鋒として反撃させた。烏桓の軍勢は大いに崩れ、蹋頓は虎豹騎を率いていた曹純に捕縛され斬られた。これにより、烏桓諸軍は壊滅し、名王以下多くが殺され、胡人や漢人二十余万が投降した。袁煕と袁尚は、遼東太守の公孫康の元に逃亡した。
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