烏梅伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 08:36 UTC 版)
1331年に起こった元弘の乱で大敗を喫した後醍醐天皇が笠置山から撤退する際、一緒に逃げてきた女官の一人が月瀬に滞在した。その女官が熟れた梅の実を見て月瀬の民に京で使用される紅花染め用の烏梅の製法を教えたという伝承が残る。その約100年後の15世紀ごろには五月川流域一帯は烏梅を作るための梅林で埋め尽くされたという。 深い渓谷にある月瀬の村々には耕作地として利用できる土地に乏しく、厳しく取り立てられる上納米を納める余裕がなかった。そこで換金作物である烏梅を生産し、烏梅の販売金を銀納した。耕作地として利用できない斜面で烏梅に用いる梅を栽培し、限られた耕作地では自給食料を生産することで自らの生活を守ったのである。
※この「烏梅伝来」の解説は、「月ヶ瀬梅林」の解説の一部です。
「烏梅伝来」を含む「月ヶ瀬梅林」の記事については、「月ヶ瀬梅林」の概要を参照ください。
- 烏梅伝来のページへのリンク