事前の経緯
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219年には曹操が使者を派遣って孫権に同盟を申し出た。孫権はこれを受け入れ、曹操と同盟を結び共同で劉備を攻め、劉備軍の不意をつき荊州の諸郡を奪還し、関羽を討ち取った。 221年に曹操の子で魏の初代皇帝の曹丕は孫権を呉王にとりたてようとした。222年6月に1年近くの戦いの末に呉は蜀の遠征軍を打ち破る(夷陵の戦い)。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。このような状況の中で呉内部には白帝城の劉備を攻撃すべしという意見と慎重論が対立していた。陸遜は魏軍の南下が援軍などではなく呉攻撃の軍であることを見抜き蜀攻撃の軍の撤退を上申した。孫権はこの意見を採用した。
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事前の経緯
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劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏(魏豹)を降し、代(代の相の夏説)を降して趙(趙歇)へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった。 一方、趙は趙歇と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわりこれを却下した。 陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。ただ外交面で考えれば、漢と楚、当時の二大強国のどちらとも敵対的だった趙としては、攻めさせない必要が高かったので妥当な判断でもある。 韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められればひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った。 そして、傅寛・張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった。
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事前の経緯
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「ガリア戦争」も参照 紀元前53年の戦いでカエサルに敗北を喫して、指導者であったアッコ(Acco)を処刑されたカルヌテス族を中心として、依然ローマへ敵対する動きは燻っていたが、紀元前52年にカルヌテス族の軍はケナブム(現:オルレアン)を攻撃し、ローマ人を虐殺し、財産を奪い取った。 ケナプムでの事件がガリア全土に知れ渡ると、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスは族内の親ローマ派の反対を押し切って対ローマへ乗り出すことを表明して、アルウェルニ族以外にセノネス族・アウレルキ族・ピクトネス族らが共同でウェルキンゲトリクスにガリア連合軍の最高指揮権を委ねることを決定した。 ウェルキンゲトリクスは未だ去就を定めかねているガリア諸部族に対して決起を呼びかけ、結束を強めるため各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。このようにしてガリアを糾合したウェルキンゲトリクスは、過去のローマ軍の戦い方を研究しており、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さなかった。これによってローマ軍の兵站の破壊を狙ったのである。 このガリア総決起に対しカエサルは、アンビオリクスに敗れた紀元前54年の過ち(アドゥアトゥカの戦い)を繰り返さぬよう、冬営中の10個軍団を素早く結集させた。焦土作戦によって兵站を敵地に頼ることが出来ない苦しい状況であったが、カエサルは攻撃を決意した。ローマ軍はまずケナブムを奪取し、次いでアウァリクム(現:ブールジュ)を目標に定めた。アウァリクムはビトゥリゲス族の中心都市で、全ガリアの中心に位置する戦略上の要衝でもあり、また焦土作戦の対象から外れていたため、兵站の策源としても申し分なかった。ウェルキンゲトリクスはアウァリクムも焼き払うつもりであったが、ビトゥリゲス族の「全ガリアで最も美しく、最も肥沃なこの町を焼かないでくれ」という懇願により取りやめられた。4月までにローマ軍はアウァリクムを制圧、カエサルは見せしめのために住民と守備隊の40,000人を皆殺しにした(アウァリクム包囲戦)。 兵站の問題が解決したローマ軍はより積極的な作戦行動に移った。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を与えて北部での作戦を委ね、自身は6個軍団を率いてアルウェルニ族の領地である南部を攻撃した。しかし、ウェルキンゲトリクスは粘り強く抵抗し、さらにゲルゴウィアの戦いでカエサルを破った。この予期せぬ敗北に、カエサルはガリア・ナルボネンシス(現在のプロヴァンス一帯)まで後退し、戦力を再編しようとした。撤退の途中でカエサルは、精強なガリア人騎兵に対抗するため、ゲルマン人騎兵を雇い入れた。その際にカエサルはゲルマン騎兵を即戦力とするため、ローマ人の貧弱な乗騎とゲルマン騎兵の健康な乗騎を交換させた。 山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾し、ディジョン近辺で攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ。カエサルはこれを好機と見て包囲に移った。間もなくラビエヌスの軍団も合流し、包囲軍はローマ正規軍12個軍団と、ゲルマン人騎兵、クレタ人投石兵、ヌミディア人軽装歩兵等のアウクシリアを合わせて約60,000人となり戦力的な不安は解消された。
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事前の経緯
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五代から宋にかけて商業活動が活発化し、平和の回復に伴って地方からの上供も安定するようになった。商業活動から得られる商税・塩・酒の専売などの収入を背景に宋朝は非常に強い経済力を誇った。しかし、以下にあげられるような要因によって次第に財政が悪化し、英宗時代に赤字に転落した。
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事前の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:30 UTC 版)
魏は辛毗と桓階を派遣して呉に臣従を迫り、併せて人質を要求したが、孫権は応じなかった。曹丕はこれを口実として、呉に親征を開始した。 222年9月、曹丕は許昌から出撃し、他の諸将の軍も一緒に南下を開始した。 同年11月、曹丕は宛城に入り本営とし、董昭は曹丕の軍師を務めた。曹休には九州の二十余軍(約10万以上の兵力)が与えられ、曹休は張遼・臧覇・賈逵・王淩らを率いて洞口へ侵攻し、趙儼は曹休の軍師として進軍した。さらに曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らを江陵にそれぞれ派遣し、辛毗は曹真の軍師として従軍した。曹仁を濡須口に、蔣済は曹仁の軍師を務めた随行した。これに対し、孫権は呂範に五軍(2~3万人)を与え、呂範は徐盛・全琮・孫韶・吾粲・賀斉らを率いて洞口で魏軍と対峙した。濡須口では朱桓が、江陵では朱然が防衛にあたり、呉軍は防備を固めた(濡須口の戦いも参照)。
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事前の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 16:59 UTC 版)
191年4月、董卓が洛陽を焼き払い長安に逃亡すると、諸侯の間で内紛が起こったこともあり最終的に反董卓連合は瓦解した。諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため争い始めた。その中でも、同じ袁家の出身であり強大な勢力を誇っていた袁紹と袁術は対立を深めていった。荊州の劉表は袁紹と、北平の公孫瓚は袁術とそれぞれ同盟を結んだ。袁術は、中国南部から袁紹の影響力を排除するために、配下であった孫堅に劉表の勢力下にある荊州南郡の襄陽城攻撃を命じた。 南郡には東西に横切る形で漢水(長江の支流)が流れ、漢水を挟んで北に樊城、南に襄陽城が建っている。樊城・襄陽城は中国の中心に位置し、戦略上の非常に重要な拠点となっていた。三国時代に移った後も、この2城は重要拠点として頻繁に係争地となった。
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事前の経緯
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239年1月、明帝曹叡が崩御すると、大将軍曹爽は司馬懿と共に後継者の曹芳の補佐役となった。曹爽は何晏ら臣下の提言で権力を独占しようと画策するが、司馬懿のこれまでの功績は重く依然として対蜀漢の最前線を任されていたため、軍権を奪うことまではできなかった。241年には六安・芍陂・樊城は呉軍に壊され、大きな実績を挙げていく。 243年10月、蜀の司令官であった蔣琬は、北伐計画の為に駐屯していた漢中から主力軍を撤退させ、涪県に駐留した。魏の曹爽は蜀漢を征伐する絶好の機会と捉え、丁謐・鄧颺(中国語版)・李勝らの進言もあり蜀討伐を決意し、李勝と征西将軍・夏侯玄を西方に派遣し遠征の準備をさせた。だが、司馬懿は失敗を予期して強くこれを諌めた。曹爽と彼の臣下は、蜀からの増援到着前に兵の数で圧倒すれば漢中征服は容易であり、たとえ蜀を完全に征伐できずとも、漢中攻略だけで曹爽の名声と朝廷への影響力を増大させるには十分であると考え、蜀漢征伐に繰り出した。
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事前の経緯
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241年春正月、呉の零陵太守である殷礼は、魏帝曹芳が非常に幼く即位してからまだ間もない事から、今が魏を征伐する絶好の機会であると呉帝孫権に進言し、以下のような計画を立案した。まず、荊州・揚州の民を徴兵し、強者を前線に送り老弱の者に後勤を命じる。それから蜀と連携を図り長安方面へ出兵させる。呉軍は諸葛瑾、朱然を襄陽へ、陸遜・朱異を寿春へ進軍させ、孫権自らも親征軍を率いて淮河を北に進み青州・徐州へ侵攻する。襄陽や寿春を包囲し、長安以西も蜀軍の攻撃を受ければ、許昌や洛陽に動揺がうまれるであろう。その後、魏軍を四路のうち一路でも打ち破る事が出来れば戦線は崩壊して他の三路もやがて瓦解し、そこで更に攻勢をかければ中原一帯を平定するのは容易であろう、というものであった。孫権は失敗したときの危険性を考慮してこの作戦自体は容れなかったが、魏への大規模出兵を決意するに至った。
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事前の経緯
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当時は後漢皇帝は名目だけの存在となり、各地で群雄が割拠する戦乱の世だった。次第に群雄たちが淘汰される中で勝ち残ってきたのが、曹操と袁紹である。 曹操は、養祖父曹騰が大長秋まで昇った大宦官であり、父曹嵩は売官によって三公の一つである太尉になるなど、濁流派に属する宦官の家系の出身であった。曹操自身は役人職を歴任した後、黄巾の乱において功を立てて西園八校尉に任命されるなど頭角を現し、陳留で身内と共に挙兵、たび重なる戦役の中で献帝を手中に収めたことで正当性を手にし、自身も三公である司空となり、呂布・李傕・袁術・張繡らを下して199年には河南から江蘇の長江以北にかけた地域(兗州・豫州・司隸・徐州)を統一した。 一方、袁紹は四世にわたって三公を輩出した名門中の名門汝南袁氏の頭領であり、その名の下には多くの人物が集まった。若くして司隷校尉まで昇った袁紹は宦官粛清や反董卓連合など時代の節目において常に一線に立ち、冀州の牧となった後は袁術・公孫瓚・張燕らと争い合い、197年には大将軍の位を得た。199年には易京に公孫瓚を滅ぼし、一族に軍を預けて山東をも併呑、冀州・青州・并州・幽州の四州(河北・山西・山東)を支配した。中原の二大勢力となった両者の対立は必至となる。 199年、劉備が徐州にて曹操へ反乱を起こし、孫乾を派遣して袁紹に同盟を求めてきた。曹操は劉備を討つべく、袁紹への先陣を于禁に任せて東征した。田豊は「劉備と戦っている曹操の背後を襲えば、一度の行軍で勝利できます」と主張したが、袁紹は子供の病気を理由に遠征を許可せず、近くの延津を攻撃して于禁に撃退された。劉備は敗走してかつて推挙した縁がある袁譚が支配する青州に逃亡して袁紹の元に身を寄せることになった。劉備の妻子と家臣の関羽は曹操の捕虜となり、曹操の客将となった。
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事前の経緯
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272年8月、呉帝孫晧は西陵督であった歩闡を繞帳督に任じ武昌に戻るよう命じた。父や兄を継いで西陵を守ってきた歩闡は、突然の召還命令を不審に思い、朝廷で讒言されたのではないかと大いに疑った。孫晧は気に入らない臣下を理由をつけて誅殺することが多くあり、かねてより暴君として恐れられていた。ただし、このとき孫晧に歩闡を誅殺する意図があったかどうかは文献上では不明である。 9月、身の危険を感じた歩闡は晋に使者を出し、西陵城ごと降伏する旨を申し入れ、兄の歩協の子の歩璣と歩璿を人質として洛陽に送った。歩闡自身は配下の将兵とともに西陵城に籠った。晋帝司馬炎は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・侍中に任じ、三公と同等である儀同三司の特権を与えた。さらに、交州牧を兼任させ、宜都公に封じた。また、人質の親族にも官位・爵位を与えて厚遇した。 楽郷都督の陸抗は歩闡反乱の報せを聞くと、即日部隊を分け、配下の左奕・吾彦・蔡貢らに命じて西陵城へ急行させた。 都督荊州諸軍事羊祜は司馬炎の命を受け、歩闡救援のため呉へ進軍した。羊祜は荊州刺史の楊肇に陸路で西陵へ向かわせると共に、益州からも巴東監軍の徐胤が指揮を執る水軍を向かわせた。また、自らは陽動の為襄陽より南下し、呉の拠点の江陵へと進軍した。
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事前の経緯
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曹操との漢中争奪戦に勝利して勢いに乗る劉備軍は、荊州の守将であった関羽が魏の拠点である樊城を攻めた。関羽が曹操の派遣した于禁らの援軍を降すと、樊城は孤立無援となり魏領内で賊の蜂起を招いた。さらに丞相掾の魏諷までもが反乱を起こすなどしたため、曹操は遷都を考えるほど動揺した。しかし、劉備と同盟を結んでいた呉は以前から荊州を奪う策謀を進めており、突如として関羽の背後を呂蒙・陸遜らに襲わせた。呉書においては、孫権は内心では関羽を憎んでおり、功績を挙げたいと称して曹操に自ら関羽討伐を申し出た。関羽が長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を収奪したため孫権が攻撃を決めた。『三国志』魏書においては、蔣済と司馬懿が于禁の敗戦により遷都を考える曹操を宥め、孫権に関羽の背後を突かせ関羽を撤退させることを献策したなどの記録が見られる。孫権が関羽を憎んでいた原因は、関羽の娘と孫権の息子との婚姻を申し入れた際、関羽はこれを断り孫権を怒らせた。孫権は関羽に救援を申し出ていながら、関羽は孫権の指揮した援軍が遅れたことを怒鳴った「狢子め!樊城が陥落したとき、拙者は孫権を滅ぼさずにいられようか!」と罵り、孫権はそれを聞いて、彼が自分を軽視していることを知り、下手に出て陳謝した、などの記録が見られる。孫権は南郡を攻めて関羽を捕らえ斬首、その首を曹操に送った。これにより、荊州南部を劉備から奪取することに成功した。
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事前の経緯
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『史記』によれば殷末の帝辛は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。 帝辛はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。周の君主である西伯の姫昌は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、帝辛に疑われて奴隷とされた。さらに帝辛は殷の人質となっていた昌の長男伯邑考を羹(あつもの、スープのこと)にして昌に食べさせた。昌の家臣たちが帝辛に莫大な贈物をしたので昌の疑いは晴れて解放されたが、昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。 昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。 昌の後を継いで次男の姫発が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。 発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍は侵攻したが、発は「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。 この理由は不明とされているが、 占いによって殷を滅ぼすのが不吉と出た。 諸侯の力を借りてあまりに素早く殷を滅ぼしてしまうと、周が王朝を開いた時に諸侯の力が強くなりすぎると考えた。 などの理由が推測されている。
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事前の経緯
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府兵制以前に行われていたのが兵戸制である。これは特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は魏の曹操が黄巾党の残党30万を配下に入れた青州兵である。その後、兵戸制は南朝・北朝に受け継がれ、南朝では文治重視をして武を軽視する考え方から兵戸の没落を招き、宋代に崩壊していた。しかし北朝では鮮卑の持つ尚武的な気風から兵戸の地位は概して高く、比較的長い間保持されていた。北魏での兵戸は鎮と呼ばれ、特に首都・平城を北の柔然から守る六鎮の地位は高く、領土の統治権も持っていた。 しかしその北魏でも孝文帝の漢化政策により、文治の思想が広まり、兵戸の地位は次第に下がり、更にそれまで領土の統治権も中央からの郡県に奪われ、その生活は郡県からの援助を以て成り立つようになった。特に首都が平城から洛陽に遷ったことで六鎮の地位は暴落し、これに不満を持った鎮の構成員たちは六鎮の乱を起こす。
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当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890年に退陣する。ビスマルクのくびきを離れたヴィルヘルム2世は既にビスマルクによって形成されていた三国同盟をビスマルクの思惑とは異なる方向に利用してオーストリア=ハンガリー帝国やイタリアと接近し、当時の植民地の過半を所有していたイギリス・フランスから植民地のパイを奪い取ろうと画策した。またこれもビスマルクによって調印された独露再保障条約の更新を拒否する。
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252年10月、呉帝孫権が崩御すると、魏の征東将軍胡遵は毌丘倹・王昶と共に呉征伐を計画し上奏した。呉の大将軍諸葛恪は、魏の襲来を想定し巣湖周辺の東興にある堤防の改築を行った。この堤防は、かつて呉帝孫権が築いたものであり、諸葛恪はこれを補強して堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。また、全端と留略に千人の兵士をそれぞれ与えて二つの城を守らせた。
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清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代の皇帝により、全盛期を迎え、この時代は康乾盛世(三世の春)と呼ばれる。しかし、その一見華やかな時代の陰で徐々に社会矛盾・官僚の腐敗・地方農民の没落などが進行していた。 乾隆年間には、それまで勢力を弱めていた白蓮教が次々と新教団を作るようになる。1774年、山東省で八卦の新教団が結成され、首領の王倫(中国語版)が反乱を起こした。また、四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、鎮圧された後、信徒は白蓮教に吸収された。 清朝は白蓮教の教主である劉松を捕らえて、流刑に処し、劉松の高弟である劉之協の逮捕令を出した。1794年に劉之協は捕らえられるが、護送中に脱走した。
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事前の経緯
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紀元前579年、晋と楚は宋の地で会盟を行い、晋楚両方に親交のあった宋の華元の仲介により、両者が共に宋と盟約を結ぶ形で停戦した(『史記宋微子世家』にはこの出来事を紀元前589年(宋の共公元年)としているが、『左伝』には紀元前579年(魯の成公十一年)としている。『史記』の元年は九年の誤りと見られる)。 しかし紀元前577年、晋の盟下にある鄭が楚の盟下にある許を討ったので楚の共王は許を救うために鄭を討った。翌年、楚によって討たれた鄭は楚に領土を割譲して和睦し、楚の盟下に置かれることになった。晋の厲公は元々自分に従っていた鄭の背信を正すために、衛・斉・魯などを従えて鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたので、晋と楚は再び戦うことになった。これが鄢陵の戦いである。
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楚荘王は天下平定を目指していたが、北上するたびに晋に阻まれていた。そこで荘王は一大決心でもって自ら兵を率いて鄭を攻めた。鄭は晋に援軍を求めたが、晋の正卿の荀林父は度重なる鄭の面従背反を知り抜いていたので、援軍を送らずに放っておけばすぐに鄭は楚に降伏するだろうとみて、これを退けた。鄭は負ければ今度こそ荘王に国を滅ぼされるという危機感を抱き、必死に抵抗したので、晋の想像よりも長い間陥落しなかった。そこで晋は援軍を発したが、晋軍が鄭に到着する頃に、鄭は陥落した。 鄭の襄公は、微子啓が周に降伏した際の故事に倣って、諸肌を脱いで両手を縛り羊を引く礼でもって荘王を迎えた。楚の群臣は鄭を滅ぼすことを勧めたが、荘王は「鄭君は人に遜ることができた。必ずやよく国を治めるだろう」と言って、鄭君に恥辱を与えないために兵を退き、改めて鄭と同盟を結んだ。
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呉三桂、尚可喜、耿精忠の祖父耿仲明は元々明の武将であり、明が李自成により滅亡した時に清軍に協力した功績でそれぞれの藩を領有する事を認められていた。これらの藩王は藩内の徴兵権・徴税権・官吏任用権などを持っており清の中の半独立国家となっていた。藩の存在を時の皇帝康熙帝は疎ましく思っており、中央集権体制を確立するために藩を廃止したいと願っていた。 1673年(康熙十二年)、尚可喜が自らの引退と子息尚之信への継承を願い出た。また、他の2人は政府の狙いを探るために自分達の藩の廃止を願い出た。朝廷では藩の存廃について意見が対立したが、康熙帝は廃止を決し、清朝は藩自体を廃止すると尚可喜・呉三桂・耿精忠に返答した。
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事前の経緯
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河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが、8月に劉表が死に、跡を継いだ劉琮は9月に曹操へ降伏した。荊州の一部の人間は曹操への降伏を拒み、劉表の客将であった劉備に付き従った。その数は十数万人にも上り行軍が遅れたため、劉備は関羽が率いる数百艘の船にこれを分乗させ、漢水を南下させた。 劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで生き延びた。劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会し、1万人余りの軍勢の指揮を執っていた劉琦と合流しつつ、夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させた。
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事前の経緯
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197年、曹操は張繡が拠点としている宛を攻略するため、本拠地の許昌より兵を起こし、淯水まで進んでその地に陣を敷いた。張繡は曹操軍の侵攻を知り、参謀であった賈詡に助言を求めると、賈詡は一旦曹操に降伏し、その後に時期を見て追い払うことを進言した。張繡はその進言を採用し、軍勢を引き連れて曹操に降伏すると、曹操はこの申し出を受け入れて引き続き宛を統治する事を許した。その後、自身もまた宛に入城し、しばらくの間滞在する事とした。 張繡の陣営には胡車児という武勇に優れた将がおり、曹操はその勇猛さを称賛し、自ら彼へ金銀財宝を送った。張繡はこの件を知ると、曹操が胡車児を抱き込んで自らを暗殺するつもりなのではないかと訝しがるようになった。また、曹操は宛に滞在中、張繡の義理の叔母に当たる鄒氏を気に入り、自らの妾にした。鄒氏は張繡の族叔父である張済の後妻であり、張済の死後は張繡が面倒を見ていた。その為、曹操と鄒氏の関係がその耳に入ると、激怒して曹操に恨みを抱くようになった。曹操もまた張繡の不満が募っている事を知って殺害を密かに計画したが、曹操の動向を警戒していた張繡は事前にその計画を察知し、先手を打って曹操軍を急襲することを決意した。
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事前の経緯
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190年代、袁紹と公孫瓚の抗争がまだ続いていた頃から、遼西烏桓を率いていた蹋頓は袁紹と誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫瓚の勢力を滅ぼす(易京の戦い)と朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で単于に任命した。袁紹は、自身の臣下の娘を養子にとり、烏桓の部族長らと婚姻させることにより、同盟を強化した。 200年、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗を喫し、202年に死去する。袁家一族は河北に強大な勢力をもっており、烏桓は袁紹の息子と関係を保った。袁紹が死んだ後、長男の袁譚と三男の袁尚(袁譚とは異母兄弟)は、それぞれ後継を表明し対立するようになる。曹操は郭嘉の進言により、両者が争うのを待ってから、その隙を突いて袁家の支配圏を攻略していった。袁譚は曹操と戦うも敗北して殺され、袁尚は幽州にいる次男の袁煕を頼って落ち延びた。袁煕が袁尚を受け入れたことにより、幽州の豪族に反感を抱かれ、結果として焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。結局、袁尚は袁煕とともに遼西烏桓の蹋頓に保護を求めて逃亡した。
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事前の経緯
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夏の王位が桀に渡った際、夏は以前と比べてもはや強くはなかった。桀は普段は不正を働き、また無責任であった。桀は自身の宮殿が素朴すぎると感じ、新たな宮殿の建造を命じた。これには7年もの月日を費やし、数万人もの奴隷を働かせ、また、多額の資金を使い切った。農民は憤慨した。 そうしている間に、黄河の下流の近くにある殷は、近くの部族からの支援を得ることに成功した。彼らの祖先である后稷は、禹の為に働き、殷の領地を与えられた。殷は湯の治世中、農業の発展により、ますます力を得ていた。湯は近くの部族と同盟を結び、また、その配下を丁重に扱った。湯は伊尹によっても支えられた。伊はもともと湯の義父の奴隷であったが、湯が結婚したとき、湯の料理人となった。伊はまた、当時の情勢を分析し単なる料理人ではなく、湯の右腕になった。湯は夏を終わらせる決心をした。湯は桀に従うことに同意したが、ひそかに夏王朝を転覆する準備をした。最初に、湯はその国民を亳という名の場所に移させた。 亳から夏の首都までの地域は平坦であり、進路をさえぎる丘や川はほとんど無かった。湯は自分の配下にも寛容だったので、彼らの支持を受けていた。ほとんどの貴族が幽霊を信じていたように、彼らは神とその先祖を崇拝することが非常に重要であると信じていた。地理的に殷に近い葛にいた部族は、定期的に祖先を祭祀せず、湯が犠牲のためにと与えた家畜と羊を食べてしまい、また、動物を送った湯の子供を殺した。 湯はこの部族を征服し、さらにいくつかの周辺部族を滅ぼした。しかし桀は湯が彼の王位に対する脅威であることを認識していなかった。
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事前の経緯
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大司馬桓温が寧康元年(373年)に死去すると、謝安を尚書僕射となり、東晋の政権を握る。兵権は謝安と桓温の末弟の桓沖に委ねられた。謝安は前秦の勢力拡大、並びに北方や西方に迫る脅威に対抗するため、兄の謝奕の子の謝玄を将軍に任命し、この謝玄の下で劉牢之らを参謀に登用して精強な北府軍を創設した。 太元8年(383年)、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。
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事前の経緯
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華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、氐族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、第3代皇帝苻堅が宰相王猛の助けを借りて370年11月に親征して前燕を滅ぼし、371年4月に苻雅と楊安を派遣して前仇池を服属させ、376年8月には姚萇と梁熙らを派遣して前涼を滅ぼし、12月には苻洛と鄧羌を派遣して代を滅ぼし、遼東から中原・涼州などを獲得して華北統一を完成させた。この時が前秦の全盛期であり、社会は安定・繁栄し、人口は2300万前後に達し、高句麗や新羅からは朝貢も行なわれた。 苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分達の本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ氐族を移すということを行った。また王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位に就けていた。苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑・匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし、王猛はこのやり方で民族対立が収められたとは思えず、漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険であるとの見方を持っており、たびたび苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。 華北統一の1年前の375年に王猛は「晋を攻めないように。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた。しかし苻堅はこれに従わなかった。
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事前の経緯
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紀元前638年、宋の襄公と楚の成王が激突した泓水の戦いは楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。 その翌年、晋の亡命公子である重耳(後の文公)は斉から宋へと向かった。宋の襄公は重耳の器量を知っていたため国君に対する礼をもって迎え入れ、重耳は歓待を受けた。襄公はこのあとまもなく泓水の戦いの戦傷のため死去する。その後で重耳は楚へと入り、成王は諸侯の礼をもって重耳一行を迎え入れた。宴の最中に成王は「もし国に帰って晋公になることが出来たら私にどう報いてくれるでしょうか?」と問いかけた。重耳は「もし王とやむを得なく戦場で相まみえることがあったら三舎だけ軍を引きましょう。」と応えた。これは軍隊が一日進んで宿営することを一舎といい、三舎とは三日分退く行程のことを指し、相手に一目置くという意味と同時に手加減するという意味がある。これに成王の臣下である子玉は王に対して無礼だと怒り、殺してしまいましょうと成王に言ったが、成王は重耳の亡命中である立場と器量を認めていたのでこれを退けた。 その後、重耳は秦の助けを借りて晋公の座に就く(以後、文公とする)。文公は狐偃・先軫らの補佐を受けて、周王室の内乱を収めるなど急速に勢威を広げていた。襄公の後を継いだ宋の成公は晋の力を借りて楚の影響下を脱しようと、楚との盟約を反故にして晋との親善を深める。このことに不快感を抱いた楚の成王は紀元前633年に軍を発し、陳・蔡・鄭・許らの諸侯と共に宋の首都を包囲し、宋は晋へ救援を求める。 これに応えて文公は三軍を召集し、宋の救援へと向かう。 晋軍の編成中軍将・郤縠、佐・郤臻 上軍将・狐偃、佐・狐毛 下軍将・欒枝、佐・先軫 (『史記』による。『春秋左氏伝』には狐毛が将、狐偃が佐になっている。)
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事前の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 14:10 UTC 版)
魏の将軍の龐涓は、若いころは孫臏と机を並べ兵法を学んでいた同門であった。孫臏が龐涓の招きを受けて食客として魏にやってきたとき、以前から自分の才が孫臏に及ばないことを知っていた龐涓は、地位を脅かされることをおそれ、孫臏を罠にかけて冤罪に陥れた。そのため孫臏は臏(あしきり)の刑(両足を切断する刑)に処された上、面に黥(いれずみ)を入れられて獄中に幽閉された。その後、斉の使者が魏に来たとき、孫臏は計略を用いひそかに使者と面会し、共に魏から斉に脱出した。こうして孫臏は斉国の軍師となり、龐涓に復讐する機会を待った。 韓は桂陵の戦い(囲魏救趙)で魏が敗退したのをみて、斉と結び魏と戦うことにしたが魏軍は想像以上の底力をみせ、韓は魏と五度戦って五度負けた。逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求め、斉の威王は信頼する孫臏を師将として派遣しようとしたが、孫臏はこれを断って田忌(中国語版)を推薦した。田忌を将とする斉軍は臨淄を発して魏に攻め込んだ。このため韓にいた魏軍は慌てて魏に引き返したため韓は救われた。
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事前の経緯
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宋の襄公は、春秋五覇に数えられる斉の桓公と密接な協力関係にあったが、桓公亡き後の斉国内の騒動を瞬く間に鎮圧したことに自信を得、会盟を主宰して自らも覇者への道を歩き始めた。これを快く思わなかったのが楚の成王である。当時の楚の国力は宋を遥かに凌いでおり、宋が主導権を握ろうとしたことに対して反発して自身は会盟に出席せず、代わりに将軍の子玉を送った。諸侯は口々に楚王の無礼をなじったが、襄公はそれらをなだめて会盟をおこなった。 会盟が始まったが、子玉も、襄公が盟主の座についているのが面白くなく、襄公に恥をかかせてやろうと思い立った。そこで突如として襄公を拉致し、周辺の邑を荒らしまわった。宋の兵は襄公が人質に取られているので手も足も出せなかったが、見かねた諸侯が子玉をなだめ、なんとか襄公を取り返すことが出来た。襄公の盟主としての面目は丸潰れとなり、気の済んだ子玉は意気揚々と楚に引き上げていった。このときの子玉の所業を成王はいたく気に入ったらしく、のちに子玉は楚の令尹(宰相)になる。
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事前の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 09:07 UTC 版)
五代十国時代の後晋によって遼に割譲された燕雲十六州はその後、後周によって莫州・瀛州と寧州(唐末・北宋の乾寧軍)が宋側に奪い返され、遼側・宋側共に奪い返すべき土地として認識されていた。北宋が開かれた後に太宗(趙匡義)によって奪回作戦が試みられたが、これは失敗に終わる。その後、北宋では文治政策が進められ、この問題は一時置かれる。遼の方では太宗(耶律堯骨)の死後は内紛が続き、南に干渉できる状態ではなかった。 982年、遼で聖宗が即位する。内紛を収めた聖宗とその母の承天皇太后は1004年、20万と号する軍を率いて南下を始めた。
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