蜀漢征伐
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263年、司馬昭の命で征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会が蜀漢征伐の兵を興すと、衛瓘は廷尉卿・持節をもって鄧艾・鍾会の軍事の監査を命じられた。蜀漢が平定されると、謀反の意思を抱いた鍾会は鄧艾を失脚させようと画策し、鄧艾が朝廷の許可を得ずに専擅を行っていると衛瓘に訴え、衛瓘もこれに同意して朝廷への上奏を行い、ほどなく鄧艾捕縛の詔を受け取った。この時、鍾会は鄧艾が衛瓘を殺害し、さらに鄧艾の罪が加わる事を期待していた。自らの身の危険を察知した衛瓘は、夜中に密かに鄧艾軍の諸将を掌握した上で鄧艾・鄧忠父子を捕え、洛陽へと護送する事に成功した。 しかし後に実は鍾会こそが謀反を企んでいたことが発覚すると、胡烈・胡淵と共に反乱を平定し鍾会を滅ぼした。さらに直後に鄧艾の部下たちが護送中の主君を助け出そうと向かうと、鄧艾の報復を避けるべく彼と確執のあった田続を通じて鄧艾・鄧忠父子を殺害した。朝廷は衛瓘の功績を賞したものの、鄧艾父子を殺害したことで世間の非難を買った。
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