魏の重臣としてとは? わかりやすく解説

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魏の重臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:09 UTC 版)

陳羣」の記事における「魏の重臣として」の解説

延康元年220年正月曹操没し曹丕文帝)が王位に即くと、昌武亭侯・尚書となり、さらに禅譲尽力した。またこの頃九品官人法建議制定した禅譲の際は華歆と共に喜びの色を見せず、特に華歆曹丕不興買ったが、陳羣が「漢朝の臣であった道義心表情出てしまったのです」と弁明したことで、華歆尊重されるようになった黄初年間曹丕が卞太后亡き両親爵位追贈ようとすると、「女性爵位与えるのは、古代王者たちの典則ではない」と反対した。曹丕はこの提議称え先の命令撤回した。この提議『三国志』魏書后妃伝の陳寿の評でも「全ての王者規範とし、後世伝えるだけの価値がある」と称賛されている。 尚書僕射侍中経て尚書令・潁郷侯に昇進した黄初4年223年)、司馬懿と共に鮑勛御史中丞推挙した正直な鮑勛幾度も曹丕対立。のち黄初7年226年)には陳羣らの諫言聞き入れられず、処刑されている。 黄初5年224年)、曹丕が呉の孫権を討つため広陵郡侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した帰還の際は仮節となり、水軍統率した。許昌戻った後の黄初6年225年)、鎮軍大将軍・中護軍録尚書事昇進した黄初7年226年5月16日曹丕が病に倒れると、曹真曹休司馬懿と共に遺詔を受け後事託された。曹丕没し、後を継いだ曹叡明帝)がその見送ろうとすると、曹真王朗と共に暑気理由取り止めさせた。 曹叡即位する潁陰侯に昇進500戸の加増を受け領邑1300戸となり、さらに司馬懿と共に開府許された。12月には司空任じられ引き続き録尚書事仕事行なった曹叡初め政務執る際は、主君追従し臣下同士不和生じさせる者達に用心するよう上奏した。 太和4年230年)、曹真蜀漢征伐反対したが、曹真はそれを取り合わず敢行結局長雨祟られ進軍できず、再び陳羣進言によって帰還勅命出された。太和5年231年)に名将張郃戦死すると、これを愛惜する曹叡同調したが、辛毗からは君主弱気にさせるべきではないと批判された。 曹叡公主一人若死すると、曹叡悲しみ自ら見送ろうとした。陳羣出費多さ理由反対の上奏を行ったが、聞き入れられなかった。青龍年間には曹叡宮殿の造営工事熱中したが、陳羣多く群臣達と同様に上奏自省求めた。これにより計画幾分かは縮小されたところがあった。 青龍4年236年12月24日亡くなり靖侯と諡された。子の陳泰が跡を継いだ正始4年243年7月、魏帝曹芳斉王)は詔勅下し曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には陳羣含まれている。 幾度も政治得失について密奏したが、草稿全て破棄し当時の人は誰もその内容知らなかった高官ありながら何も仕事をしていない批判する者もあったとされ、実際に呉質陳羣そのように批判し陳羣曹叡から叱責受けた陳羣没後正始年間に『名臣奏議』が編纂され、その密奏明らかになると、人士感嘆受けた

※この「魏の重臣として」の解説は、「陳羣」の解説の一部です。
「魏の重臣として」を含む「陳羣」の記事については、「陳羣」の概要を参照ください。

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