魏の重臣として
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延康元年(220年)正月、曹操が没し曹丕(文帝)が王位に即くと、昌武亭侯・尚書となり、さらに禅譲に尽力した。またこの頃、九品官人法を建議・制定した。禅譲の際は華歆と共に喜びの色を見せず、特に華歆が曹丕の不興を買ったが、陳羣が「漢朝の臣であった道義心が表情に出てしまったのです」と弁明したことで、華歆は尊重されるようになった。 黄初年間、曹丕が卞太后の亡き両親に爵位を追贈しようとすると、「女性に爵位を与えるのは、古代の王者たちの典則ではない」と反対した。曹丕はこの提議を称え、先の命令を撤回した。この提議は『三国志』魏書后妃伝の陳寿の評でも「全ての王者の規範とし、後世へ伝えるだけの価値がある」と称賛されている。 尚書僕射・侍中を経て、尚書令・潁郷侯に昇進した。黄初4年(223年)、司馬懿と共に鮑勛を御史中丞に推挙した。正直な鮑勛は幾度も曹丕と対立。のち黄初7年(226年)には陳羣らの諫言も聞き入れられず、処刑されている。 黄初5年(224年)、曹丕が呉の孫権を討つため広陵郡に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。帰還の際は仮節となり、水軍を統率した。許昌に戻った後の黄初6年(225年)、鎮軍大将軍・中護軍・録尚書事に昇進した。 黄初7年(226年)5月16日、曹丕が病に倒れると、曹真・曹休・司馬懿と共に遺詔を受け後事を託された。曹丕が没し、後を継いだ曹叡(明帝)がその柩を見送ろうとすると、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取り止めさせた。 曹叡が即位すると潁陰侯に昇進。500戸の加増を受け領邑1300戸となり、さらに司馬懿らと共に開府を許された。12月には司空に任じられ、引き続き録尚書事の仕事も行なった。曹叡が初めて政務を執る際は、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう上奏した。 太和4年(230年)、曹真の蜀漢征伐に反対したが、曹真はそれを取り合わずに敢行。結局長雨に祟られ進軍できず、再び陳羣の進言によって帰還の勅命が出された。太和5年(231年)に名将張郃が戦死すると、これを愛惜する曹叡に同調したが、辛毗からは君主を弱気にさせるべきではないと批判された。 曹叡の公主の一人が若死すると、曹叡は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。陳羣は出費の多さを理由に反対の上奏を行ったが、聞き入れられなかった。青龍年間には曹叡が宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。これにより計画の幾分かは縮小されたところがあった。 青龍4年(236年)12月24日に亡くなり、靖侯と諡された。子の陳泰が跡を継いだ。正始4年(243年)7月、魏帝曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には陳羣も含まれている。 幾度も政治の得失について密奏したが、草稿は全て破棄し、当時の人は誰もその内容を知らなかった。高官にありながら何も仕事をしていないと批判する者もあったとされ、実際に呉質が陳羣をそのように批判し、陳羣は曹叡から叱責を受けた。陳羣没後の正始年間に『名臣奏議』が編纂され、その密奏が明らかになると、人士の感嘆を受けた。
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