魏の臣下として
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延康元年(220年)2月、曹操が亡くなり曹丕が魏王の位を継ぐと、王朗は御史大夫へ昇進し、安陵亭侯に封じられた。民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう上奏した。献帝が曹丕に帝位を禅譲しようとすると、曹丕にそれを受けるよう勧めた。曹丕(文帝)が即位した後の黄初元年(同220年)11月、御史大夫の官は司空に改称された。楽平亭侯に昇進した。この時、鍾繇・華歆・王朗という曹操以来の名臣が三公となっており、曹丕は「この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と言った(「鍾繇伝」)。 曹丕はよく狩猟を楽しんだ。しかし王朗は上奏し、帝王の心構えを説いて、思慮に欠ける行為は慎むよう諫言した。曹丕は、古代の帝王と昨今の状勢において「武の道を尊ぶことを否定すべきではない」として、これに反論した。『魏名臣奏』によると、王朗は経費の節約と労力の削減を説いた上奏を行なったという。また、かつて大理であったときに主簿であった張登の功績を、黄初年間に今度は鍾繇と連名で顕彰し、その忠義と職務熱心さを曹丕に認めさせ、張登を太官令に引き立てたという。 臣従していた呉と、それに敵対する蜀漢の間で戦闘が起こると(夷陵の戦い)、曹丕は孫権と協力して劉備を討つため出征しようとした。王朗は「まず孫権が動いてからにすべきです」と述べ、軍を動かすことに消極的な意見を述べた。 黄初3年(222年)、孫権が子の孫登を上京させようとしなかったため、曹丕は呉征伐を考え、許昌に移って出陣の準備を始めた。王朗は「現時点での出陣は軽弾みで、無駄が多いのではないでしょうか」と諫言した。曹丕は結局計画通り出陣したが、長江を目前にして引き返すこととなった。 黄初4年(223年)、高官達に対し、優れた人物を推挙するよう詔勅が下されると、王朗は楊彪を推挙した上で、自身が病気と称して楊彪に地位を譲ろうとした。曹丕は楊彪へ三公に次ぐ地位を与えると共に、王朗にも職務へ復帰するよう要請した。王朗は命令に服し復帰した。
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魏の臣下として
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延康元年(220年)2月、曹操が亡くなり曹丕が魏王の位を継ぐと、王朗は御史大夫へ昇進し、安陵亭侯に封じられた。民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう上奏した。献帝が曹丕に帝位を禅譲しようとすると、曹丕にそれを受けるよう勧めた。曹丕(文帝)が即位した後の黄初元年(同220年)11月、御史大夫の官は司空に改称された。楽平亭侯に昇進した。この時、鍾繇・華歆・王朗という曹操以来の名臣が三公となっており、曹丕は「この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と言った(「鍾繇伝」)。 曹丕はよく狩猟を楽しんだ。しかし王朗は上奏し、帝王の心構えを説いて、思慮に欠ける行為は慎むよう諫言した。曹丕は、古代の帝王と昨今の状勢において「武の道を尊ぶことを否定すべきではない」として、これに反論した。『魏名臣奏』によると、王朗は経費の節約と労力の削減を説いた上奏を行なったという。また、かつて大理であったときに主簿であった張登の功績を、黄初年間に今度は鍾繇と連名で顕彰し、その忠義と職務熱心さを曹丕に認めさせ、張登を太官令に引き立てたという。 臣従していた呉と、それに敵対する蜀漢の間で戦闘が起こると(夷陵の戦い)、曹丕は孫権と協力して劉備を討つため出征しようとした。王朗は「まず孫権が動いてからにすべきです」と述べ、軍を動かすことに消極的な意見を述べた。 黄初3年(222年)、孫権が子の孫登を上京させようとしなかったため、曹丕は呉征伐を考え、許昌に移って出陣の準備を始めた。王朗は「現時点での出陣は軽弾みで、無駄が多いのではないでしょうか」と諫言した。曹丕は結局計画通り出陣したが、呉に敗れて撤退した。 黄初4年(223年)、高官達に対し、優れた人物を推挙するよう詔勅が下されると、王朗は楊彪を推挙した上で、自身が病気と称して楊彪に地位を譲ろうとした。曹丕は楊彪へ三公に次ぐ地位を与えると共に、王朗にも職務へ復帰するよう要請した。王朗は命令に服し復帰した。
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