魏の直轄経営とは? わかりやすく解説

魏の直轄経営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:49 UTC 版)

帯方郡」の記事における「魏の直轄経営」の解説

襄平城の攻城戦最中であろうか、魏は劉昕鮮于嗣それぞれ帯方太守楽浪太守任じ両者密かに海路で、山東半島から黄海越えて朝鮮半島派遣帯方郡楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守劉昕は、周辺の東濊・韓族首長邑君あるいは邑長の印綬賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した邪馬台国卑弥呼も、景初2年238年。『魏志倭人伝』の記述誤りで、景初3年正しいとする説もある)6月に、この新生帯方郡の地へ、朝貢使の難升米派遣したわけである。このとき太守劉夏であったが、彼は郡の官吏付けて後漢の都・洛陽まで難升米一行を送らせた。 正始元年240年)にさらに異動があり、新太となった弓遵は、魏の詔書金印紫綬配下梯儁持たせて卑弥呼のもとへ送った。ところがこの弓遵は、同6年245年)に嶺東遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡所管していた辰韓八国を楽浪郡編入することになり、その決定現地伝えた際、通訳誤訳犯して韓族激怒させ郡内韓族帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵楽浪太守劉茂が兵を興して討ち魏軍韓族滅亡させたが弓遵戦死した。 同8年247年弓遵から引き継いだ太守王頎は、倭の使者から邪馬台国狗奴国との交戦報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが[要出典]、魏朝から邪馬台国援軍送られることはなく、魏の少帝詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官軍使軍司副官など諸説あり)の張政派遣されるに留まった。 ここまで帯方郡動き『三国志』からつぶさに知れる歴代太守記録を見ると、戦死した弓遵の例を除き外交官としての軍事的活動が主であることに気づくまた、その頻繁な人事異動は(8年間で4人の太守)、帯方郡軍閥化を防ぎ第2の公孫氏生まぬようにするための魏の基本方針推測される

※この「魏の直轄経営」の解説は、「帯方郡」の解説の一部です。
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