魏の勇将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:37 UTC 版)
父は曹操に仕えて武人として功績があった。文欽は曹爽と同じ村の出身で、父と同じく武勇に優れていたという。 219年の魏諷の反乱に際し、彼に連なる言辞を吐いていた為に連座し処刑されそうになったが、曹操は父の功績に免じて彼を赦した。 明帝曹叡の太和年間、五営校督・牙門将となった。 文欽は気が荒く、礼節を弁えぬ性格の為に人望がなかった。また、歴任したいずれの官職でも傲然として上司を馬鹿にし、官吏の法に遵わなかった為に周囲から憎まれていた。この事でいつも弾劾の上奏を受けたが、曹叡はそれを抑えてやった。後に淮南の牙門将となり、廬江太守・鷹揚将軍に昇進した。 曹叡の没後、養子の曹芳が跡を継ぎ即位したが、まだ幼少であったため、後見役の曹爽が実権を握っていた。文欽は、王淩から貪欲残忍さを指摘弾劾された為、一時中央に召し返された。しかし曹爽は文欽と同郷だった為に文欽を厚遇した上で、さらに事件の詳細も取り調べずに再び任地に返し、冠軍将軍に昇進させた。文欽は益々付け上がって尊大な態度をとり、勇壮さを示して偉ぶった為に虚名を博した。
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