魏に反逆する
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孟達の反逆の経緯は『蜀書』、『魏略』、『晋書』各書によって差異が大きい。 『蜀書』費詩伝によれば、蜀漢の諸葛亮は孟達の近況を魏からの降臣李鴻に聞いた。蜀から魏に降った王沖が諸葛亮は孟達の妻子を誅殺しようと考え劉備がこれを止めたという虚言を述べたが、孟達は諸葛亮は見識に条理が通っておりそんなことはしないとこれを信じず、諸葛亮に深く敬意を示している様子であったという。これを聞いた諸葛亮は孟達を魏との戦いの外援にしようと考えた。蔣琬と費詩にこの計略を述べたところ、費詩は孟達は劉璋、劉備に叛いた不忠、反覆の小子であり、書簡を与える価値はないと反対した。諸葛亮は構わずと手紙を送り、数度のやり取りのうちに孟達は魏への叛意を述べた。ところが諸葛亮は孟達に誠意が無いと考え救助をせず、孟達は司馬懿の征伐軍に敗れ斬られた。 『魏略』によれば、孟達は国境に駐屯すること久しく次々と庇護者が亡くなったため不安となった。諸葛亮はこれを聞くと孟達の寝返りを誘おうと数度手紙を送り孟達はこれに返書を送った。時に魏興太守申儀は孟達と不和であり、隠れて孟達と蜀の密通を朝廷に上表した。曹叡はこれを信じなかったが、数度にわたり申儀が孟達の蜀との二心を主張すると、司馬懿は参軍梁幾を派遣してこれを審査させ孟達に洛陽へ入るように勧めた。孟達はこれに驚き遂に謀反をおこした。申儀は蜀に通じる道を遮断し、救援を求められないようにした。討伐軍として派遣された司馬懿は孟達の大将李輔と甥の鄧賢を誘ったところ、鄧賢らは城門を開いて軍勢を引き入れた。孟達は包囲されること十六日で敗北した。その首は、洛陽の大通りの四辻で焼かれたとある。 『晋書』宣帝紀によれば、諸葛亮は孟達が劉備を裏切ったことを憎み、蜀への災いになると恐れていた。諸葛亮は孟達と申儀が不和であったことに付け込み、謀反を促すために郭模という男を偽降させ孟達の密謀を申儀に漏らした。これを知った孟達は果たして挙兵した。司馬懿は孟達の速断を恐れ、時間を稼ぐため、孟達に丁寧な書簡を送って迷わせ、孟達がすぐに挙兵しないよう謀った。孟達はこれに騙され「宛は洛陽から八百里の距離にあり、私のいる新城郡から千二百里の距離にあります。司馬懿が城に来るには、まず言上して帝意を汲まねばならず、手続きも含めれば一ヶ月近くかかるでしょう。その間に我が方は十分に防備を固められます」という内容の手紙を諸葛亮に送っていたという。しかし孟達の予想に反し、司馬懿は孟達の4倍の兵を率いて、州泰の先導下で昼夜兼行の進軍を強行し、僅か8日で上庸まで辿り着き孟達を攻撃した。上庸城は三方を川に囲まれた要害であった。しかし司馬懿の予想外の進軍の速さに、孟達陣営では甥の鄧賢など反逆者が続出し、孟達は半月ほどで敗れ斬殺された。首は洛陽に送られ晒された。また申儀も司馬懿に勅命を詐称した罪に問われ逮捕され都に送られた。 『文選』「晋紀総論」注引干宝『晋紀』の記述では、司馬懿は孟達を斬るのみならず、10年後の襄平城(遼隧の戦いを参照)と同様に上庸城の屠城(住民の皆殺し)を行っている。 子は蜀に仕えたが、蜀の滅亡後に故郷の扶風郡へ帰った。
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