魏の函谷関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:37 UTC 版)
後漢末年、曹操は潼関の戦いや陽平関の戦いに際して、山中を進む古道が狭隘なことから、食糧輸送のための新道(運漕道)を古関の北10里の黄河河畔に開いた。その後、弘農太守孟康 (zh:孟康 (三國)) によって運漕道に関所が置かれ、当初は「大崤関」「金関」と称され、のちに「新関」「魏関」「魏函谷関」などと呼ばれた。その後廃墟となっていたが、康煕18年(1679年)に霊宝県令の江蘩が再建した。光緒年間(19世紀末から20世紀初頭)には日本の岡倉天心、関野貞、桑原隲蔵らがこの函谷関を通過し、記録を残している。また、民国初年にも修築された。 魏の函谷関は日中戦争中に日本軍と中国軍の激戦地となり、関は破壊されたという。その後、三門峡ダムのダム湖に水没した。
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