魏の政治とは? わかりやすく解説

魏の政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)

三国時代 (中国)」の記事における「魏の政治」の解説

196年、魏の基礎作った曹操棗祗韓浩らの提言採用し屯田制開始している。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士農民護衛して耕させる制度である。屯田制当初難航したが、次第任峻らの尽力などにより軌道に乗った官渡の戦い時点では曹操軍兵糧確保難航している。屯田制により曹操軍食料事欠かないようになり、各地食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏の初代皇帝曹丕冀州兵士5万戸を河南郡移した曹操降伏させた烏桓族を中国内地に住まわせ、烏桓兵士軍隊加入させた。曹操軍烏桓騎兵はその名を大い轟かせた。 曹操勢力圏境界付近に住む住民氐族勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争負けて領地奪われても住民奪われないようにする為である。三国時代相次ぐ戦乱などにより戸籍人口激減しており、労働者は非常に貴重だった郷挙里選科目一つ孝廉には儒教知識人が主に推挙されたが、曹操勢力幹部である荀彧荀攸賈詡董昭鍾繇華歆王朗らが孝廉推挙されている。曹操自身孝廉推挙されている。川勝義雄は「荀彧主導で、曹操元に多く名士(主に儒教的知識人)が集まり、やがて名士武将抑えて曹操政権内で大きな権力持った魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職名士によって占められた」としている。 220年、魏の皇帝曹丕は、陳羣意見採用し九品官人法という官吏登用法を始めた従来官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類するまた、郡の中正官が官僚候補評価して一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官官僚としての出発点起家官と呼ばれる)となる。その後順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世しそれ以上の官品へは通常上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正の上に、郡よりも広い地域管轄する大中正を導入した。魏から司馬氏西晋移行したころから、郷品は本人才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲始まり貴族層形成されるようになった曹丕後漢における宦官弊害教訓とし、宦官一定上の官職就けないようにした。また、外戚皇帝親族弊害考慮し皇后政治参加禁止するなどして一族大権持たせることをほとんどしなかったが、その結果司馬氏権力対抗できる者が居なくなり滅亡一因となった

※この「魏の政治」の解説は、「三国時代 (中国)」の解説の一部です。
「魏の政治」を含む「三国時代 (中国)」の記事については、「三国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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