魏の襄王期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:11 UTC 版)
紀元前319年、魏の恵王が死去し、張儀が魏を去ると、恵施は魏に帰還して、恵王の後継者の襄王に仕えた。 襄王は王位について間もなく、恵王の国葬を行おうとしたが、豪雪により国葬が困難になってしまった。にもかかわらず、襄王は国葬を強行しようとした。恵施はこれを諌めて、民生安定を優先するべきこと、また、周の文王の「灓水」の故事を引いて、自然現象の背後には死者の意志があること等を説き、国葬を止めさせた(『呂氏春秋』開春論開春篇、『戦国策』魏策二)。 紀元前318年、公孫衍の主導のもと五国合従軍の秦征伐(函谷関の戦い)が行われると、恵施は戦後の収拾策のため楚に赴いて交渉した(『戦国策』楚策三)。紀元前316年には、趙にも赴いた(『戦国策』趙策三)。 襄王の宰相になった田需(中国語版)に対しては、助言を与えている(『戦国策』魏策二)。 恵施は紀元前310年頃には既に死んでいたと推定される。というのも、『史記』魏世家には、紀元前310年に田需が死んだ際の後任候補が挙げられているが、その中に恵施の名前が無いためである。
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