魏の重臣へとは? わかりやすく解説

魏の重臣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:19 UTC 版)

鍾繇」の記事における「魏の重臣へ」の解説

曹操魏王になると、大理となった。その法の運用振りは、王朗並び称されたという(「王朗伝」)。また、毛玠讒言により弾劾されると、その取調べ当たっている(「毛玠伝」)。あるとき曹操が、死刑代わりに宮刑復活提案したところ、鍾繇死刑代わりとして肉刑復活させるべきと意見したが、民への影響案じた意見多く一時沙汰止みとなった太子であった曹丕とは親しく、五熟釜を貰ったり、玉玦を贈ったりした仲であった(『魏略』)。孫権臣下の礼をとり、関羽の首を送ってきたときは、手紙やりとりし対応を相談し合ったこともあるという(『魏略』)。 相国にまで昇進したが、かつて推挙した魏諷建安24年219年)に反乱起こしたため、連座により一時免職となっている。 曹丕魏王となると再び大理となり、曹丕文帝)が即位する廷尉崇高郷侯となり、やがて賈詡後任として太尉となり、平陽郷侯に転封した。この時、鍾繇華歆王朗という曹操以来名臣三公となっており、曹丕は「この三公一代偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろうと言った曹丕は、以前肉刑復活論理解示していたため、群臣達を集め何回議論をさせた。しかし、戦により一時沙汰止みとなった曹叡明帝)が即位すると、太傅定陵となった太和年間鍾繇上奏し、死刑代替として肉刑復活を再び主張し足切り鼻削ぎなどの肉刑受けても、子が作れるとして人口対策にもなると唱えた。しかし、王朗肉刑弊害(特に「肉刑復活した」とだけ伝わった場合の呉・蜀の民に与え影響)を憂慮し死刑そのものを減らすのが目的ならば、他の手段をとるべき」と意見述べた。この論議には100人ほどの参加者があったが、王朗意見支持する者が多かった。しかし、曹叡は呉と蜀の平定先決だとして、再び沙汰止みとした。 このころ、張氏を溺愛したため、別の側室である孫氏嫉妬し、張氏を毒殺しようとした。鍾繇はこれを咎め孫氏離縁し、さらに張氏を愛するようになり、ついには末子となる鍾会もうけている(「鍾会伝」が引く鍾会自伝)。またあるとき、離縁した妻と復縁することを曹丕から命じられたため、憤激して自害しようと山椒目一杯喰らって咽喉支障来し、口が利けなくなったともいう(「鍾会伝」が引く『魏氏春秋』)。後、賈氏正室として迎えた太和4年230年)、80歳で死去した諡号成侯大理廷尉であったことの公正さ評価されたためという(『魏書』)。爵位鍾毓継ぎ鍾会魏の重臣となった鍾毓死後は鍾駿が跡を継いだ正始4年243年)秋7月曹芳斉王)は詔勅下し曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には鍾繇含まれている(「斉王紀」)。 景元5年264年)に鍾会が蜀で反乱起こし殺害されたとき、鍾毓の子のうち、鍾会随行していた鍾邕も殺害されその他の子達(鍾毅・鍾峻・鍾辿)も皆収監された。一族そのまま連座して処罰されるところであったが、鍾繇鍾毓功績免じて一部許されている(「鍾会伝」)。

※この「魏の重臣へ」の解説は、「鍾繇」の解説の一部です。
「魏の重臣へ」を含む「鍾繇」の記事については、「鍾繇」の概要を参照ください。

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