魏の重臣
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220年(建安25年)、曹丕は曹操の後を継いで魏王になると、賈詡に感謝し三公の一つである太尉に任命した。『荀勗別伝』によれば、不適任であるとして、孫権に笑われたという。 話は前後するが、赤壁の戦いの直前には曹操に対して、まず占領して間もない荊州の足場を固め、孫権に対し万全の体制を築いてから、降伏を勧めるように献策している。また曹丕(文帝)から蜀漢・呉に対する戦略を問われた時も、「どちらも小国とは言え、蜀の劉備は優れた手腕を持ち、諸葛亮が良く国を治めています。呉の孫権は真偽を見抜く力を持ち、陸遜が情勢の変化をしっかりと押さえています。今ここの群臣を見回しても劉備と孫権に匹敵する者はおりません。今は文を先とし、武を後にすべきです」と、性急な侵攻の不可を説いている。曹操・曹丕はいずれも賈詡の献策に従わず兵を進めたが、勝利を収めることができなかった。しかし裴松之は、曹操の判断が正しく、賈詡の策は誤りだと述べている。 「文帝紀」によると、221年8月5日(四分暦では黄初2年6月晦)に日食があり、所轄の役人が太尉であった賈詡を免職にするよう上奏した。曹丕は、この上奏に対し「天変地異を理由に三公を弾劾してはならない」という詔勅を出している。また、曹丕が三方面から呉を攻撃するとそれに従軍した。賈詡は、朱然との江陵での戦いで魏軍は戦死者も数多となりだと述べている。 223年(黄初4年)、77歳で病死し、粛侯と諡された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}同時期に三公となった華歆や王朗をはじめ、多くの者が曹操の廟園に功臣として祭られたが、賈詡は曹昂や典韋を死に追いやったためか、祭られることはなかった。[要出典] 『隋書』経籍志には、彼の手による『孫子兵法』・『呉起兵法』など兵書の注釈書が存在していたことが記されている。
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魏の重臣
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220年、曹丕が魏王になると将作大匠に任じられ、魏の初代皇帝に即位すると右郷侯・大鴻臚となった。 221年、弟が所領の一部を分け与えられ関内侯になると、自身も侍中に転じた。同時期に侍中に任命された者に蘇則がおり、蘇則は漢王朝への忠誠心が強い人物であったため、魏建国のために働いた董昭を嫌悪した(蘇則伝)。 222年、夏侯尚らが江陵を攻めた際には、深入りは危険なのですぐに撤退させるよう進言した。これは的を射た進言であったため、曹丕は董昭の軍略を張良・陳平に匹敵すると激賞した。224年、都郷侯・太常となり、光禄大夫・給事中に転任した。 曹丕の呉遠征に随行し、帰還後の226年に太僕となった。同年のうちに曹叡が即位すると、楽亭侯・衛尉になり千戸の所領を得た。子にはそのうち百戸が分け与えられ、関内侯となっている。 230年には司徒代行となり、232年には正式な司徒となった。軽重浮薄の輩が世に跳梁跋扈しており、これを除くべきだと曹叡に上奏したため、多くの者が官職を追放された。 236年に81歳で死去し、定侯と諡された。子の董冑が後を継ぎ、太守や九卿を歴任した。 陳寿は董昭を程昱・郭嘉・劉曄・蔣済と並べ、荀攸と同じく謀略に優れた策士だが、荀攸と違って徳業はなかったと評している。
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