別伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 20:44 UTC 版)
「八坂神社 (土浦市)」の記事における「別伝」の解説
新治郡郷土史は、漁夫が神体を拾い上げた年を応永3年(1396年)、真鍋台への遷座の年を応永18年(1411年)と具体的に記している。大形村から神体が流された経緯については「後醍醐天皇が武家(北条高時)征伐の綸書を小田城主治久が大形村に祀りし神体なりと其箱後に天皇賞罰厳重にて農民共持扱兼候と川へ流す云々」という、疫病説とは異なる伝承を記している。 小田治久は北条高時に偏諱を受け、当初小田高知を称し、元弘の乱(1331年)では鎌倉幕府軍として参戦した。しかし鎌倉幕府倒幕(1333年)の後は後醍醐天皇に仕え、諡の「尊治」から一字を取って治久に改名した人物である。「征伐の綸旨」とは、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が船上山の戦いにおいて鎌倉幕府討幕に向けて決起を命じた綸旨である。元弘3年(1333年)の小田治久による社殿再修の伝承と、何らかの関係があるとも考えられる。 疫病の蔓延を鎮めるほか、何らかの理由により、ある村落が疫神である牛頭天王の神体を川に流し、それを別の村落が拾い上げる云々という伝承は、茨城県南部の素戔嗚尊を祀る旧牛頭天王社の由緒に時折見られる。いずれも神体を水辺から拾い上げて祀ることが、信仰の再生儀式になっている。これらは集落間で牛頭天王信仰が受け渡された事実を伝説化するための古い様式とされている。
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