別件逮捕・取り調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「別件逮捕・取り調べ」の解説
加害者Fは母娘3人殺害事件から18日目の1982年6月14日、潜伏していた宿舎近くで捜査員に発見され、X事件の口止めを図ろうとした脅迫事件の容疑で通常逮捕された。その後、直接の逮捕容疑(脅迫容疑)が厚木署の管轄だったため、捜査本部により厚木警察署(脅迫事件を捜査していた所轄署)へ連行された。そして同日18時に厚木署へ到着し、脅迫容疑に関する弁解録取書を取られてから隣接の伊勢原警察署へ移送され、ポリグラフ検査を受けた。その後、Fの身柄は母娘3人殺害事件を全面自供する6月24日まで、神奈川県警本部総合留置場(横浜市)に留置され、別件逮捕直後は神奈川県警本部の捜査員2人が直接の取り調べを担当し、捜査本部を設置された藤沢署の署員1人が雑用・連絡係を務めたが、被疑者Fは供述調書を取られた際、殺人・別件容疑の脅迫ともに全面否認した。一方で逮捕翌日(1982年6月15日)、捜査本部は身体捜査令状を取った上で医師にFの身体検査を依頼し、体の傷を確認した。その結果、左手首の静脈が切断された傷をはじめ、4か所に刃物で切ったような傷が確認されたが、その傷について尋問されると「チンピラに因縁をつけられて切り付けられた」と供述した。その後も藤沢事件だけでなく、X・Y両事件の被疑者としても取り調べを受けたFだったが、取り調べ途中には電線マンの歌を歌ったり、大声を出したりなど挑発的な言動を繰り返し、事件当日の行動について「発生推定時刻の20時ごろは平塚市内を走り回っていた」と供述した。 6月16日午前、被疑者Fは最初の逮捕容疑である脅迫容疑で横浜地方検察庁に送検され、同日から10日間の検事拘置となった。Fはこの脅迫事件に関しても「知らない」と容疑を否認し続けていたが、捜査本部はこの脅迫容疑の裏付け・本件殺人事件の追及を進めた。また、別件逮捕当初は容疑事実の詳細は発表されていなかったため、X事件・Y事件についても言及されていなかったが、新聞各紙のスクープ合戦によりまずY事件との関連性が判明し、次いでX事件との関連も報道された。Y事件を捜査していた兵庫県警も、聞き込み捜査の結果「事件当日(6月5日)22時過ぎ、現場マンション付近(北へ約50 m)の玉江橋でFに似た男を目撃した」という証言を得たため、その目撃者にFの顔写真を見せたところ「間違いない」という証言を得た。神奈川・兵庫両県警は互いに捜査員を派遣し、FとY事件の関連について裏付け捜査を行った。そして、Yの遺体に刺さっていたくり小刀2本などからFの指紋が検出されたほか、Fが事件3年前(1979年)に尼崎に仕事で滞在していた事実が判明したため、Yが全く土地勘のない尼崎で殺害されていた謎は「Fが事件後、藤沢事件の共犯Yを連れて関西方面へ逃走し、口封じのためにYを殺害した」という形で解明された。そのため、兵庫県警捜査本部(尼崎中央署)は被疑者FをY事件の犯人と断定し、今後の捜査方針について「神奈川県内の事件が解決次第、殺人の逮捕状を請求して被疑者Fの身柄を兵庫県警に移す」と決めた。 一方でFは自白に至らなかったため、同月22日には新たな取り調べ担当者として「県警本部から別の捜査員2人」「これら担当者の調整役としてまた別の捜査員1人」の計3人を応援として加えた。また横浜地検も本事件に強い関心を示し、捜査本部の取り調べと並行して検事5人を投入し、Fやその家族・友人などから事情聴取を行っていた。結果、地検も捜査本部と同様に「限りなく黒に近い」という心証を固めてはいたが、当時はFが犯行を否認し、絶対的な証拠もなかったため、まずは拘置期限が切れる6月25日に拘置延長を申請し、Fをさらに取り調べて公判で有罪に持ち込めるだけの証拠を引き出す方針を決めた。また、捜査本部も拘置期限を前にして「拘置延長を申請するか、殺人容疑で再逮捕するか」の両方を検討していた。
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