生誕と王号拝命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:10 UTC 版)
541年、高澄の三男として生まれる。 高澄には多くの妻がいたが、高長恭の母は兄弟の中で唯一姓名が不詳。549年に東魏の重臣である父が暗殺されると、同母弟の高洋(長恭の叔父)がその仇を討ち、翌年には東魏の孝静帝に禅譲を迫って北斉を建国した。そのため高長恭は高氏の嫡流にありながら北斉においては傍流の皇族となった。 557年に出仕して散騎侍郎に任命される。翌558年には楽城県開国公に封じられ食邑八百戸を下賜、翌々年には儀同三司の栄誉と領左右大将軍に任じられ一千戸を加増された。 560年3月、兄の高孝珩が広寧王に、長恭は徐州の蘭陵王に封ぜられる(蘭陵郡は現在の山東省臨沂市に位置する)。同年8月以降、一千五百戸を加増され中領軍に転じる。後の562年に使持節・都督并州諸軍事および并州刺史に累進した。当時の并州は北は突厥、西は北周に面する前線地帯で、突厥が副都の晋陽に侵入すると、力戦してこれを撃退した(563年12月に北周と突厥の連合軍が晋陽を襲撃した際の動向は不明)。563年に別に鉅鹿郡開国公に封じられ、食邑一千戸が加増、領軍将軍に昇進した。
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