生誕と王位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「生誕と王位」の解説
クヌートはハーラル1世の跡継ぎであるデンマークのスヴェン1世の息子であったため、デンマーク統一の中心となるスカンディナヴィア君主の血統を由来とする。彼の生誕地および生年月日については定かではない。 メールゼブルクのティートマール(英語版)による年代記と『王妃エマ讃(英語版)』は、クヌートの母親がポーランドのミェシュコ1世の娘であったと伝えている。最も有名な中世盛期のノース人史料であるスノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスリングラ』も、クヌートの母を「ヴィンラン(Vindland)の王女グンヒル」と呼ばれたヴェンド人の王ブリスラヴの娘(スラヴ人の王女)と記している。ノース人のサガにおけるヴェンド人の王は常に「ブリスラヴ」という名であるため、これは彼女の父がミェシュコ1世(彼の息子のボレスワフ1世ではない)であったという仮定と矛盾しない。『ハンブルク教会司行録(英語版)』におけるブレーメンのアダムはクヌートの母親を、スウェーデンの前王妃でエリク6世の妻、そしてこの結婚により生まれたオーロフの母親と同一人物とする点で他と異なる。この問題を複雑にしているのは、『ヘイムスリングラ』や他のサガなどもスヴェン1世がエリク6世の未亡人と結婚したとしているが、これらの史料における彼女はシグリーズ(英語版)という明らかな別人という点であり、スヴェンはクヌートを産んだスラヴ人の王女グンヒルの死後に彼女と結婚している。スヴェン1世の妃が何人いたかやその出自については、様々な説が提示されている。ただし、ブレーメンのアダムのみがスウェーデン王オーロフとクヌートの母を同一人物としているため、大抵はアダムの記述を間違いと見なし、スヴェン1世には2人の妃がおり、1人目はクヌートの母、2人目はスウェーデン王妃であった人物と考えられることが多い。また『王妃エマ讃』では、クヌートの兄弟ハーラル2世をクヌートの弟としている。 クヌートの少年時代の手掛かりは13世紀の史料『フラート島本』に見られ、彼の兵法についてはシグヴァルディの兄弟かつ伝説上のヨムスボルグ伯爵であったのっぽのトルケルおよびヨムスヴァイキングによって、ポメラニア沖のヴォリン島にある彼らの本拠地にて教えを受けたとされる。 13世紀の『クニートリンガ・サガ』には、次のようなクヌートの描写が見受けられる。 クヌートは例外的に高身長で強く、薄く高めに位置しておりやや鉤鼻であったことを除けば、美しい顔立ちであった。色白の顔でもなお、頭髪は美しく濃かった。彼の目つきは、端正な者や鋭い者など他の者らよりも気丈であった。 —『クニートリンガ・サガ』より 1013年の夏に彼の父スヴェン王によるイングランド侵攻の際、隷下のスカンディナヴィアの部隊に加わった時点まではクヌートの生涯についてほとんど知られていなかった。それは何十年にもわたって繰り広げられ続いたヴァイキングの襲撃が最高潮を迎えた時期でもあった。ハンバー川に上陸後、イングランド王国は急速にヴァイキングの手に落ちていき、その年末ごろにエゼルレッド2世はイングランドを占拠したスヴェンを残しノルマンディーへ逃れた。その冬のスヴェンは自らの王権を強化する過程にあり、クヌートは艦隊とゲインズバラ(英語版)の軍事拠点の管理を任された。 数ヵ月後の聖燭祭の日(1014年2月3日日曜日)にスヴェンが死去すると、クヌートの兄ハーラル2世がデンマーク王としてスヴェンの後を継いだ一方、ヴァイキングやデーンロウの民衆らも間もなくクヌートをイングランド王として選出した。しかし、イングランド貴族の考えはそれらとは異なっており、賢人会議はエゼルレッドをノルマンディーから呼び戻した。復位した王は直ちに軍を率いてクヌートに対抗した。クヌートは自軍とともにデンマークへ逃れる道中、人質の手足を切断してサンドウィッチの浜辺に置き去りにした。クヌートはハーラルのもとへ向かい、彼らが共同の王位を有する可能性があるとおそらく提案したようだが、これが兄の好意的な姿勢を得ることはなかった。ハーラルはイングランド再侵攻の指揮権をクヌートに与えたと考えられているが、その条件として彼がその主張を強要し続けないこととした。いずれにせよ、クヌートは大規模な艦隊を招集して新たな侵略の開始に成功した。
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