生誕と青年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 02:57 UTC 版)
1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。また全米各地の製糖会社を回り製糖技術を学んでいる。 1907年(明治40年)に大日本製糖に戻り、大阪工場の工場長となる。このときに日本で最初の角砂糖製造に成功している。ところが日糖事件の発覚で大日本製糖が混乱の極みに達したことと、かねてより台湾での製糖業に関心を持っていたことから、大日本製糖を退社した。 その後、台湾の斗六製糖、新高製糖の経営に参画するが、両社とも他社に吸収合併されるなどの理由で退社している。 1921年(大正10年)、松江はサイパン島とテニアン島の実地調査を行い、この地での製糖業の発展に確信を抱いた。内地に戻ると製糖業による南洋開発を関係各所に説いて回った。
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