製糖業
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台湾南部での砂糖貿易は19世紀初頭に隆盛を極めた。当時の貿易相手国は中国であり、毎年の砂糖の貿易額は50万メキシコ銀貨に及んだとされる。高雄開港以前にアメリカの羅賓内洋行(Robinet & Co.)が設立されると、1854年から1857年までに香港のアメリカ商会Gideon Nye & Co.と協力し、台湾府より樟脳の専売権を獲得すると共に、高雄地区に進出し茶葉、砂糖、豆類の貿易を行っていた またCrosbie船長も1855年に高雄に進出、台湾府の支援を獲得して砂糖及び米の貿易特許を書くとくした1855年7月28日の『サンフランシスコ・デイリー・ヘレイド(San Francisco Daily Herald)』によれば米と砂糖は100袋1ドル、阿片が1包み50セントの価格であった。 日本統治時代の1901年、総督府は後藤新平の主導の下三井財閥及び鈴木藤三郎などの資本と400名の技術者を導入して橋仔頭に新式製糖工場を設立、短期間に生産量を10倍に増大させた。また第一次世界大戦の影響で台湾の砂糖の国際価格が良好なこともあり、1920年代にかけて台湾製糖業の最盛期を迎え、日本の経済を支える重要産業と貸し、また橋仔頭に土地、農業、工場、交通、金融等などの各方面での経済発展が見られた。しかし当時の甘蔗の買う付け価格は製糖工場側が決定しており、買付け価格が抑えられた甘蔗農家の生活は困窮していた 1900年、橋仔頭製糖工場施工前、総督府は駅や郵便局などのインフラを整備し、橋仔頭地区に交通革命を与えた。1901年2月、台湾初の全鉄筋構造による製糖工場が操業開始すると、道路や鉄道貨物支線などの整備が行われた。1903年、牛の牽引による軽便鉄道が橋仔頭に敷設され、4年後には甘蔗専用の五分仔鉄道として正式に開業した。1904年当時、高雄陳氏が日本の「米糖王国」政策に協力し、自ら台湾資本として初めての製糖工場を設立している。更に1905年には橋仔頭地区に電話が開通、1907年には橋仔頭の第二製糖工場が設立され、その翌日には台湾初のアルコール工場が製造されている。1909年には工場設備の維持更新を目的に橋仔頭鑄物工廠(現在の台湾機械公司)が設立されるなどのインフラ整備が続いた。 それらの製糖工場の中でも旗山地区は製糖の中心を占めた。旗山糖廠は1908年に日本高砂製糖株式会社により設立され、操業初期は毎日1,000tの甘蔗を搾出していた。翌年には塩水港製糖株式会社と合併し合併し台灣製糖株式会社旗尾製糖廠所と改称、同時に白砂糖の製造を開始し日産1,800tを記録した。また1910年には旗山駅が設置され、この地区の砂糖の大量輸送を実現した。 日本統治時代末期、日本の南進政策の一環として台湾の工業化が図られた。その中で製糖関連産業の研究が進み、無水アルコール、パルプ原料、酵母などの副産物に対する需要も高まり、単純な食品工業としての製糖業から化学工業へと転換されていった。1944年(昭和19年)、鳳山小港に東亜製紙株式会社が設立され、台湾製糖株式会社後壁林工場から提供される砂糖の搾りカスを利用した製紙事業が計画されたが、これは米軍の空襲により稼動するにいたらなかった。 戦後の台湾では、政府により「南糖北米」政策が推進され、砂糖は当時の台湾で貴重な外貨収入源となり、戦後の台湾経済の復興と発展に大きく寄与した。しかし1960年代から産業の転換が開始され、また1966年に砂糖の国際価格が暴落したことから、台湾の製糖業は次第に衰勢となっていった。
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