開港以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:57 UTC 版)
函館湾一帯はかつて「宇須岸」(うすけし、アイヌ語で「湾の端」という意味)と呼ばれ、四六時中波が穏やかであり船を繋ぐ必要もないため、「網知らずの港」ともいわれていた。1454年(享徳3年)、津軽の豪族河野政通が宇須岸に館(道南十二館の一つ)を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。 鎌倉時代末期から室町時代にかけては安東氏の活躍によって津軽十三湊を中継して交易が行われていたが、渡島半島沿岸に諸館が築かれて群雄割拠となると蝦夷地から直接若狭国方面への交易が行われるようになった。交易が増え和人の渡来が多くなるとアイヌとの不平等な格差が顕著となり、1457年(長禄元年)にアイヌが蜂起してコシャマインの戦いが、1512年(永正9年)に再びアイヌの蜂起が起こる。これらにより蝦夷地和人の中心地は福島(松前)や上ノ国へと移った。その後は蠣崎氏(松前氏)が蝦夷地を掌握した。 江戸時代になると松前藩は亀田を蝦夷地と和人地の境として、アイヌと和人の紛争を避ける対策をとった。この頃の箱館地方の中心地は亀田であったが、亀田の湊は亀田川河口にあり砂や泥が流入して湊を埋めるため、大船は箱館に入るようになり、次第に住民も箱館へ移っていった。松前藩が場所請負制を初めて発達すると交易が活発になり、東蝦夷地まで箱館の商人が掌握するようになり、コンブなどの産物が箱館湊に集荷されていった。1739年(元文4年)の記録では箱館は廻船が寄港して繁昌し、奥羽で最も波浪が穏やかな港のため東回り廻船(北前船)が天候の様子見をしていたという。このため亀田にあった亀田番所は1741年(寛保元年)に箱館に移設され、沖之口業務も行われた(『蝦夷島奇観』によると移設は1747年(延享4年)とされている)。さらに、1785年(天明5年)には長崎俵物会所が俵物役所となって箱館に会所が設置され、箱館は北国における俵物の集荷拠点となった。 19世紀に入ると1801年(享和元年)に内澗町に掘割(切土)を設け、1803年(享和3年)に地蔵町海中遠浅の埋立、1804年(文化元年)には島が竣工して造船所が設けられるなど、人工港湾がいち早く造成された。1811年(文化8年)には沖之口番所が設けられた。箱館を拠点とし蝦夷地御用定雇船頭にも任命された高田屋嘉兵衛は択捉航路の開発を行い、直捌制度が廃止となって再び場所請負制となる択捉のほかに根室・幌泉などの場所を請負い、「ゴローニン事件」での多大なる貢献など豪商として周辺地域の平和と発展に寄与した。
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