魏の重鎮
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曹操が漢中一帯を巡り劉備と争うと、偏将軍として兵の指揮を執り、族父の曹洪に従って下弁で呉蘭らを破り(「曹休伝」)、中堅将軍に任命された。曹操に従軍して長安に至り、中領軍を領した。 夏侯淵が陽安で戦死すると(定軍山の戦い)、曹操から征蜀護軍に任じられ徐晃らを指揮し、陽安で劉備軍の高翔を破った。曹操が自ら漢中に出向き諸軍を救援したが、曹真は武都に赴いて曹洪の軍を迎えとり、張郃と共に(「張郃伝」)陳倉に駐屯した。 黄初元年(220年)、曹丕(文帝)が禅譲により魏帝国を興し即位すると、鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となって、東郷侯に封じられた。 酒泉の張進が反乱すると、費曜を派遣しこれを鎮圧させた。また、張郃・郭淮・楊秋らを指揮して安定の盧水胡と東羌を討伐した(「張郃伝」「郭淮伝」)。事あるごとに諸軍を指揮して、雍州・涼州の反乱を鎮圧した。 黄初3年(222年)には洛陽に戻り、上軍大将軍・都督中外諸軍事・仮節鉞となったが、引き続き雍州・涼州の軍事も都督している。 同年から翌年(223年)にかけて、曹丕が呉に三方向から侵攻すると、夏侯尚らとともに朱然が守る江陵を攻撃した、揚州の牛渚で勝利したという記述もある。曹真は別働隊により江陵の中州を占拠し(『呉志』「呉主伝」によると223年春正月)、土山を築いて矢を射掛けたり地下道を掘ったりしたが、しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い魏陣2つを破った。包囲は半年に及び、呉軍からは内通者も出たが、朱然は内通者の存在をつきとめ死刑にした。結局は朱然が守る江陵城を陥落させられず、223年3月に撤退している。中軍大将軍に昇進し、給事中を加えられた。 黄初7年(226年)、曹丕が崩御する際には、曹休・陳羣・司馬懿と共に曹叡を補佐するよう委ねられている。曹叡(明帝)が即位すると開府を許され(「陳羣伝」)、曹真は大将軍となり、邵陵侯に昇格した。 太和2年(228年)春、諸葛亮が指揮を執る蜀軍が攻めてきて祁山を包囲すると、一時的に南安・天水・安定の三郡が蜀に降伏したが、曹真は曹叡の命令で郿に布陣しその迎撃にあたった。曹真は別ルートより長安を伺う趙雲・鄧芝の軍に備え、大軍を派遣してこれを撃破した(『蜀志』「趙雲伝」)。街亭において張郃が馬謖を破ると(街亭の戦い)、蜀軍は撤退した。しかし安定の住民であった楊条が、他の住民を連れて月支城に立て籠もった。このため曹真が自ら出陣して城を包囲すると、楊条は大将軍が自らやって来たということで降参を申し出た。 曹真は諸葛亮が敗戦の反省を踏まえて、次は矛先を変えて陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉の守備を固めさせ、城を修治させた。同年冬、曹真の予測が的中し、諸葛亮が攻めて来て陳倉を包囲した。郝昭はわずかな兵で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。このため曹真は費曜らを援軍として派遣した。諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底を突き、張郃の援軍も駆け付けたので撤退した(陳倉の戦い)。その後、2900戸まで封地を加増された。
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