魏の重鎮とは? わかりやすく解説

魏の重鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:48 UTC 版)

曹真」の記事における「魏の重鎮」の解説

曹操漢中一帯巡り劉備と争うと、偏将軍として兵の指揮執り族父曹洪に従って下弁呉蘭らを破り(「曹休伝」)、中堅将軍任命された。曹操従軍して長安至り、中領軍を領した夏侯淵陽安戦死すると(定軍山の戦い)、曹操から征蜀護軍任じられ徐晃らを指揮し陽安劉備軍高翔破った曹操が自ら漢中出向き諸軍救援したが、曹真武都赴いて曹洪の軍を迎えとり、張郃と共に(「張郃伝」)陳倉駐屯した。 黄初元年220年)、曹丕文帝)が禅譲により魏帝国興し即位すると、鎮西将軍・仮節・都督涼州諸軍事となって、東郷侯に封じられた。 酒泉の張進が反乱すると、費曜派遣しこれを鎮圧させた。また、張郃郭淮楊秋らを指揮して安定盧水胡と東羌を討伐した(「張郃伝」「郭淮伝」)。事あるごとに諸軍指揮して雍州涼州反乱鎮圧した黄初3年222年)には洛陽戻り、上軍大将軍・都中外諸軍事・仮節鉞となったが、引き続き雍州涼州軍事都督している。 同年から翌年223年)にかけて、曹丕が呉に三方向から侵攻すると、夏侯尚とともに朱然が守る江陵攻撃した揚州の牛渚で勝利したという記述もある。曹真別働隊により江陵中州占拠し(『呉志』「呉主伝」によると223年春正月)、土山築いて矢を射掛けたり地下道掘ったりしたが、しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い魏陣2つ破った包囲半年に及び、呉軍からは内通者出たが、朱然内通者存在つきとめ死刑にした。結局は朱然が守る江陵城を陥落させられず、223年3月撤退している。中軍大将軍昇進し給事中加えられた。 黄初7年226年)、曹丕崩御する際には、曹休陳羣司馬懿と共に曹叡補佐するよう委ねられている。曹叡明帝)が即位する開府許され(「陳羣伝」)、曹真大将軍となり、邵陵侯に昇格した太和2年228年)春、諸葛亮指揮執る蜀軍攻めてきて祁山包囲すると、一時的に南安天水安定の三郡が蜀に降伏したが、曹真曹叡命令で郿に布陣しその迎撃あたった曹真別ルートより長安を伺う趙雲鄧芝の軍に備え大軍派遣してこれを撃破した(『蜀志』「趙雲伝」)。街亭において張郃馬謖を破ると(街亭の戦い)、蜀軍撤退した。しかし安定住民であった楊条が、他の住民連れて支城立て籠もった。このため曹真が自ら出陣して城を包囲すると、楊条は大将軍が自らやって来たということ降参申し出た曹真諸葛亮敗戦反省踏まえて、次は矛先変えて陳倉侵入してくるだろうと予測し郝昭王生陳倉守備固めさせ、城を修治させた。同年冬、曹真予測的中し諸葛亮攻めて来て陳倉包囲した。郝昭はわずかな兵で諸葛亮軍勢寄せ付けず頑健防衛したこのため曹真費曜らを援軍として派遣した諸葛亮陳倉落とせないまま兵糧が底を突き張郃援軍駆け付けたので撤退した陳倉の戦い)。その後、2900戸まで封地加増された。

※この「魏の重鎮」の解説は、「曹真」の解説の一部です。
「魏の重鎮」を含む「曹真」の記事については、「曹真」の概要を参照ください。

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