函谷関の戦い
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函谷関の戦い
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紀元前318年、魏の公孫衍は魏・趙・韓・燕・楚の合従軍を率い、更に義渠にも秦を攻撃する様持ちかけ秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。しかし、合従軍の5国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の3国と義渠のみであった。合従軍は函谷関、義渠は李帛(現在の甘粛省天水市の東)を攻撃したが、合従軍と義渠は秦軍によって撃破された。 紀元前317年、秦は庶長の樗里疾率いる秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃した。趙・韓軍を修魚で大敗させ、韓将の申差は捕虜とした。合従軍の8万2千人が斬首された。
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