張儀登用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:22 UTC 版)
秦は商鞅の改革により、大幅に国力を増強しており、周辺諸国はこれを恐れ、本来なら主筋であるはずの周から贈り物が贈られるほどであった。新たな官職として相邦(のちの相国)を設立し、樛斿をその地位に就けた。 この国力を元に謀略家である張儀を登用して樛斿の次の相国(相邦)に任じ、度々魏・斉・楚などを討ち(岸門の役(中国語版)、龍賈の役(中国語版))、紀元前324年に王号を唱えた。 紀元前322年、張儀は秦と魏で連衡して韓を共に攻めるため、魏の恵王に遊説し魏で宰相の地位に就いた。この後、紀元前319年に張儀が罷免され魏を追放されたのち、紀元前317年に秦に戻り相国の地位に再度就くまでは中山国の楽池が秦の相国を勤めた。 秦を畏れた諸国は紀元前318年に韓・趙・魏・燕・楚の五カ国で連合軍を作り、秦に攻め込んできたが、恵文王は弟の樗里疾に命じてこれを破り、その兵士8万の首を切った(函谷関の戦い)。
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