張元至密通事件
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このように毛利家の中枢で活躍した元至であったが、慶長6年(1601年)8月27日に秀就の乳母との密通を理由として、周防大島郡で切腹させられた。しかし、元至と密通したとされる乳母はその事実を強く否定しており、元至死後の張家も輝元存命中に再興されていることから、この密通事件は事実でなく、元至を排除するための名目であったとされる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗北したことで輝元の権威は低下したが、後継の秀就は幼少であるため、輝元に代わって当主となる人物もいないという、輝元の責任を追及できない状況にあった。豊臣政権下の輝元専制体制で領国支配から遠ざけられていた五奉行系などの旧勢力は、輝元の専制体制を支えていた輝元出頭人を身代わりとした。中でも帰化人である元至はそれらの旧勢力との関係も乏しかったため、身代わりとするには最適であった。また、秀就に対する輝元出頭人の影響力を排除するためにも、元至の失脚が必要となり、密通事件が仕組まれることとなった。いずれにせよ、このような権力闘争によって秀就周辺から輝元出頭人が排除され、児玉氏と国司氏の五奉行系の家によって秀就の側近が独占されるようになる。
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