秦の函谷関(旧関)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:37 UTC 版)
紀元前361年、戦国時代の秦の孝公が東方からの侵入を防ぐため、王都の櫟陽(れきよう、後の咸陽・長安郊外、現在の陝西省西安市閻良区)の東、渭河と合流する黄河の最後の大屈曲、潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地(北緯34度38分19.23秒 東経110度55分16.59秒 / 北緯34.6386750度 東経110.9212750度 / 34.6386750; 110.9212750、現在の河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王垛村)に作られた。3層の楼閣2棟があったという。 紀元前318年、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍が函谷関を攻撃したが、秦の樗里疾が撃退した(函谷関の戦い (紀元前318年))。 紀元前241年、嬴政(後の始皇帝)は、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍と函谷関で戦い、これを退けた(函谷関の戦い (紀元前241年))。 秦末の反秦戦争では、劉邦軍は守りの堅い函谷関を避け、南の武関(中国語版)から関中に侵入し、咸陽を陥落させた。その後の楚漢戦争で項羽軍に破壊された。 前漢代に「函谷関」が新安に移転するが、これは関治(関を管理する行政機関)の移動を意味しており、旧関治所には弘農県(中国語版)の県治が置かれた。旧関を通る道路は、曹魏による新道建設(後述)などもあってか衰微した。唐代に編纂された『元和郡県志』巻二では旧関に触れる中で「今大道路は北にあり、もと鈐束の要に非ず」と記しており、主要交通路としては使われなくなっていた。ただし、老子ゆかりの地であるとされることから唐の開元年間には付近に道観「太始宮」が創建されるなどしている。 王垛村梁家溝東口に南北1300-1800m、東西900-1000mの不規則な長方形の遺構が検出されている。1992年、東門の門楼が復元されたが、遺跡保護の観点から東門遺構直上は避けられ、37mほどずらされている。王垛村付近は「函谷関古文化旅游区」として整備された。
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