秦の圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:35 UTC 版)
紀元前298年、武霊王は譲位した。王位は子の恵文王に譲り、自らは主父と名乗り実質的な権力を握り続けた。 しかし紀元前295年(?異説有り)、恵文王と公子章の間の後継者争いが元で主父が幽閉され餓死すると、趙の絶頂時代は終わり、秦の攻勢に脅かされる。藺相如と廉頗・趙奢といった名将たちの働き、たとえば、紀元前270年の閼与の戦いなどにみられるようにしばらくは持ちこたえるが、藺相如が引退した後の紀元前260年の長平の戦いで秦の将軍の白起に大敗し、その兵力の大半(戦死5万、坑刑40万と言われる)を失うと趙は急激に弱体化した。その勝利に続き秦軍が首都邯鄲に迫り、民衆が飢え子供を喰らって食いつなぐなど滅亡寸前となるが、趙の民衆が一致団結した上、戦国四君の一人で宰相であった平原君により魏の信陵君と楚の春申君らの援軍を呼び寄せ、撃退している。 長平の戦い以降は軍事的には衰退した趙だが、依然として高い文化力を保っており、各地から高名な学者が集った。特筆すべき学者としては、平原君の食客として集まった、名家(論理学)の代表的人物である公孫竜と、陰陽家の代表的人物である鄒衍がいる。また、公孫竜と同世代の趙出身の学者としては、歴史書『虞氏春秋』を著した虞卿や、『劇子之言』に言行録をまとめられた劇子(燕に移り将軍となった劇辛のことか?)、縦横家・兵家の二つの分野で著作を残した龐煖がいる。また、名将楽毅の親族で道家の黄老思想を継承した楽瑕公と楽臣公(前漢の相国曹参は楽臣公の孫弟子)も、趙滅亡の寸前まで趙に滞在していた。長平の戦いでは失態を犯した孝成王も、趙の儒家荀子と楚の兵家臨武君を招いて軍事について論戦を行わせるなど、積極的に人材登用に動いた形跡が見られる。
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