東西からの外圧と信陵君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 01:07 UTC 版)
「魏 (戦国)」の記事における「東西からの外圧と信陵君」の解説
紀元前370年、武侯が没すと、子の恵王の治世中に斉の孫臏に大敗する(馬陵の戦い)(紀元前342年)。更に、商鞅の変法により国力を急激に増大させた秦には、紀元前340年に商鞅率いる軍に大敗して黄河以西を失ったため、秦の圧力を恐れて安邑から、東方の大梁(現在の開封)へ遷都した。これ以降は国の名前を梁とも呼ばれる。ここで文侯以来保ってきた覇者の座から滑り落ちた。 その後、自国の宰相であった魏斉にかつて辱められた食客の范雎を、遠交近攻策の提唱などで重臣に採用した秦から圧迫され、秦への対策では苦しい状態が続く。 しかし、公子の無忌こと信陵君が紀元前247年に五か国連合軍を率いて、秦の侵攻軍を破った。信陵君は戦国四君に挙げられるほどの傑物となったが、その後は勝手に軍を動かしたと糾弾されたため趙に身を隠した。のちに魏へ召還されても兄の安釐王の猜疑は深く、要職から遠ざけられて、酒びたりになり、そのまま死去した。 信陵君の死後、魏は秦に抵抗できず、次々と領土を削られる。更に秦王政(後の始皇帝)の治世下と成って、ますます強勢化した秦から攻められた。 紀元前225年、秦の将軍王賁に都の大梁を水攻めにされたことにより、魏王假が降伏し、魏は滅亡した。 のち、秦末に魏王の子孫である魏咎、次いで魏豹を王として一時復興した。 また、漢の文帝の母の薄氏は魏王家出身であった。
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