東行庵
東行庵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:35 UTC 版)
明治8年(1875年)8月、梅処は上京して井上馨を訪ね、なかなか生活が立ち行かない事を相談した。井上は木戸孝允・山田顕義・山縣有朋・河瀬真孝・宍戸璣ら長州の同志に募り、月々の手当を受け取れるように取り計らった。明治14年(1881年)、功山寺に永平寺管長・久我環渓(くがかんけい)が訪れた際、正式に得度を受ける。明治17年(1884年)に山縣有朋・井上馨・伊藤博文・山田顕義の主唱により、1550円の募金を集めて東行庵が建立され、梅処に贈られた。般若心経しか知らなかったが、村人に三味線や踊りを教えたという。 明治42年(1909年)、脳溢血で67歳で死去。晋作との事を語る事はほとんど無かったが、晋作の顕彰碑が建てられる事を非常に楽しみにしており、死の数日前、一緒に建てられる福田侠平の碑が先についたため、梅処は「旦那のが来ない、旦那のが来ない」と毎日言っていたという。
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