東行庵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 00:28 UTC 版)
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東行庵 | |
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東行庵 | |
所在地 | 山口県下関市吉田1184 |
位置 | 北緯34度5分8.31秒 東経131度4分16.17秒 / 北緯34.0856417度 東経131.0711583度座標: 北緯34度5分8.31秒 東経131度4分16.17秒 / 北緯34.0856417度 東経131.0711583度 |
山号 | 清水山 |
宗旨 | 禅宗 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 白衣観音 |
創建年 | 1869年(明治2年) |
開基 | 山縣有朋、谷梅処 |
正式名 | 清水山東行庵 |
別称 | 無鄰菴(無隣庵) |
札所等 | 山陽花の寺8番 |
文化財 | 高杉晋作墓 |
公式サイト | 史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵 |
法人番号 | 2250005003574 |

東行庵(とうぎょうあん)は、山口県下関市にある曹洞宗の寺院で功山寺の末寺である。山号は清水山。山陽花の寺二十四か寺第八番札所。
歴史
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て「無鄰菴」と名付けていた。ちなみに後に山縣が京都に建てた別宅を無鄰菴というのは、この下関の無鄰菴にちなんで名付けられたものである。
慶応3年4月(1867年)に死去した高杉晋作の遺骸は、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、山縣は1869年(明治2年)に無鄰菴をおうのに贈った。「東行」は晋作の号であり、おうのは1909年(明治42年)に亡くなるまで晋作をこの地で弔ったという。
東行(晋作)の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、東行を顕彰する東行記念館が境内に建てられた。同館は2010年(平成22年)、下関市立東行記念館として再開館した。御朱印については東行記念館の受付で対応する。
前後の札所
- 山陽花の寺二十四か寺
- 7 宗隣寺 -- 8 東行庵 -- 9 功山寺
関連項目
脚注
外部リンク
東行庵
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明治8年(1875年)8月、梅処は上京して井上馨を訪ね、なかなか生活が立ち行かない事を相談した。井上は木戸孝允・山田顕義・山縣有朋・河瀬真孝・宍戸璣ら長州の同志に募り、月々の手当を受け取れるように取り計らった。明治14年(1881年)、功山寺に永平寺管長・久我環渓(くがかんけい)が訪れた際、正式に得度を受ける。明治17年(1884年)に山縣有朋・井上馨・伊藤博文・山田顕義の主唱により、1550円の募金を集めて東行庵が建立され、梅処に贈られた。般若心経しか知らなかったが、村人に三味線や踊りを教えたという。 明治42年(1909年)、脳溢血で67歳で死去。晋作との事を語る事はほとんど無かったが、晋作の顕彰碑が建てられる事を非常に楽しみにしており、死の数日前、一緒に建てられる福田侠平の碑が先についたため、梅処は「旦那のが来ない、旦那のが来ない」と毎日言っていたという。
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