晋作挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 07:31 UTC 版)
功山寺挙兵後の晋作が四国に亡命していた頃、下関の芸妓である「おうの」を伴っていた。萩の家族には逃亡の目をくらますために連れていると説明している。慶応2年(1866年)2月、幕府による長州再征を迎え撃つ準備に奔走していた晋作は本人の強い希望で正式に下関勤務になると、萩から晋作の世話をするため、雅は2歳の梅之進と晋作の母親ミチとともに下関にやって来る。入江和作邸でおうのと同棲していた晋作は妻妾の鉢合わせに困り果て、木戸孝允に泣きついて藩命を取り付けてもらい、長崎に旅立ってしまった。雅たちは白石正一郎邸に預けられたのち、4月には萩に戻った。後日、晋作からは雅への贈り物と平身低頭に詫びた長文の手紙が送られた。 8月1日の小倉落城の頃、晋作は喀血し、結核が悪化して病床につき、10月には下関の東行庵におうのと共に移った。晋作の病が重くなると、最期を看取るべく医者が萩の家族を下関に呼び寄せた。野村望東尼が妻妾の間を取り持ち、それまで看病していたおうのが下がり、雅が晋作の看病にあたった。慶応3年(1867年)4月13日深夜に晋作は死去した。結婚生活は7年余りであるが、実際に共に過ごしたのは合計で1年半ほどであった。
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